解題・説明
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宮川惣兵衛は宮川久次郎の次男で勇のすぐ上の兄にあたる。幼名を粂次郎と言った。元治元年の禁門の変のときには、新選組を訪ねて京に滞留しており、近畿地方の情勢を郷里に知らせている。本書簡は内容から慶応元年十月廿六日の書簡と推定される。 「大樹公将軍職御辞退の由」は、「徳川慶喜公伝三」によると、「兵庫開港の期追々近づきたれども、横浜、長崎、箱館の三港すら未だ開港の勅許あらざるに、京都に近き兵庫いかでか御許容あるべき、また、老中らが相謀りて外人を促してことさらに兵庫に来り迫らせたるなり」という理由にて、朝廷は阿部正弘、松前崇広の二人の老中を罷免した。これを聞いた将軍家茂は。先例なきことにて驚き、会議の結果将軍職の辞表を十月一日に朝廷に提出した。三日に朝廷は将軍が辞職して東帰する由を聞き驚愕一方ならず、関白は守護職に命じて「大樹の願いは許さるべくもあらず、且お暇も賜はざるに帰府の儀は差し止める」と伝えた。五日になり条約は勅許となり、兵庫開港は差し止めとなった。将軍辞意は許可なく、条約は勅許があり幕府の意がほぽ達したので、家茂は辞意を撤回した。幕府は九月二十一日に長州追討の勅許を得、十月二十七日に芸藩に対して、長州一件につき糺問のため大目付永井尚志らを派遣することを知らせた。先陣は井伊掃部頭(直憲、近江彦根藩主)、二陣は榊原式部少輔(政敬、越後高田藩主)となっている。 追伸の舟板先生は近藤周斎のことで、正月が近いので、餅米二百疋分を暮になってから餅について届けて欲しい。また、米代金弐分は、宮川惣兵衛より、黒砂糖一袋は舟板の近藤先生より兄、音五郎へ送る旨を伝えている。
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