(旧石器時代)大久保町八木
昭和6年(1931)4月18日、直良信夫(なおらのぶお)によって、海食崖(かいしょくがい)から化石化した人骨片が採集されました。この骨は昭和20年(1945)5月25日の空襲で直良の自宅とともに焼失しました。その後、東京大学に保管されていた石膏(せっこう)模型をもとに、「明石原人」と名付けられ、大論争になりました。昭和60年(1985)に国立歴史民俗博物館の発掘調査によって13万年前から6万年前の地層から加工された木器が出土し、当時、この地に人がいたと考えられるようになりました。【マップ中・大20】