古墳時代前期

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 古墳が造られ始めた時期で、それまでの墓とは異なり規模が大きく、形・大きさ・棺・副葬品などの特徴が、それまでの被葬者(ひそうしゃ)の実際の生活圏である狭い地域(例:明石)を超えて、はるかに広い範囲(例:近畿地方)で共通性が認められるようになります。古墳時代の始まりは、円形の盛土部分に長方形の盛土を接続させた前方後円形という特殊な形の墓が各地に造られるようになった時で、ヤマト政権の成立時期であると考えられています。
 明石市域に現存する古墳が少ないため、ここでは、市域に限定せずに明石川流域や東の山田川流域をも含めた旧明石郡の範囲を「明石」として捉え、そこに所在する古墳をも含めて対象とします。
 「明石」地域では前方後円墳の築造は他地域に比べてやや遅く4世紀前半に始まります。伊川の中流、「明石」地域の中で最も広い沖積地を眼下にし、遠くに淡路島をも望むことができる山頂に最初の前方後円墳白水瓢塚(しらみずひさごづか)古墳(神戸市西区伊川谷町、墳丘長56m)が築かれました。副葬品として腕飾りが13個出土し、その反面、戦いの道具である鉄鏃がないという特徴から、葬られたのは女性と推定されています。
 次に4世紀後半には、兵庫県内最大の古墳(前方後円墳)・五色塚古墳(神戸市垂水区五色山、墳丘長194m)が築かれます。当時の生活基盤は農耕による食糧生産が中心でしたが、この古墳が立地している場所は明石海峡に向かって広がる段丘の突端部で周囲に農耕可能な沖積地がほとんどなく、また系譜をたどることができる前代の古墳もないところです。このような場所に巨大な古墳を築いた最大の理由は明石海峡を通過する船の監視・掌握(しょうあく)であり、それは当時のヤマト政権にとっての重要な役割でした。またヤマト政権中枢部の古墳と設計企画が共通していることが指摘されており、五色塚古墳にはヤマト政権と強く結びついた人物が葬られていると考えられています。

■五色塚古墳(神戸市教育委員会提供)

 この頃、明石市域で唯一の竪穴式石室を埋葬主体とする古墳である幣塚(ぬさづか)古墳(魚住町清水) 【マップ西18】 が瀬戸川により形成された沖積地を望む段丘上に築かれました。直径34m、高さ4mの円墳で、市内最古・最大の古墳です。被葬者は瀬戸川流域を中心とした地域を支配していたと思われます。また、五色塚古墳に使われている円筒埴輪と同じ工人集団により作られた円筒埴輪が出土していることから、その繋(つな)がりが注目され、瀬戸内海の海上交通権をも掌握していた五色塚古墳の被葬者と盟友(めいゆう)関係にあったと推定されています。

■幣塚古墳