古墳時代後期

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 5世紀の後半になると古墳に大きな変化が表れます。ほとんど土器ぐらいしか副葬されていない直径15m程度の小規模な古墳が数多く造られるようになります。これまでの古墳には地域集団の首長が葬られていましたが、この頃からは集団を構成する家族の長を埋葬する古墳が造られるようになったと推定されます。また、6世紀になると棺を墳丘の上部から埋葬するのではなく、墳丘の横に開いた穴から出入りし、その先に設けられた石造りの部屋に棺を埋葬する横穴式石室が採用されるようになります。これは、部屋の入り口の開閉が可能で、後に亡くなった人を先に亡くなった人と同じ空間の中に葬ることができ、これまでの基本的に一基の古墳に一人だけの埋葬から、一基の古墳に多人数の埋葬へと変化し、6世紀後半になるとほとんどの古墳が横穴式石室になりました。
 明石地域における古墳時代後期の古墳で横穴式石室以前のものは、明石川中流の東岸、西神ニュータウン内で多数確認されています。明石市域では、あさぎり寮古墳(明石公園、直径約10m)、松陰新田1号墳(直径約15m)・2号墳(直径約20m)(大久保町松陰新田)、山陽新幹線建設工事中に発見され、発掘調査が行われ、多くの須恵器や埴輪が出土した藤江中尾古墳(藤江、直径約18m)が相当します。
 横穴式石室をそなえる古墳は東の山田川流域(神戸市垂水区)に特に集中的に分布しています。舞子古墳群・多聞(たもん)古墳群があり、合わせて100基を超える古墳が築かれました。この特徴的な分布は横穴式石室の材料となる石材(花崗岩(かこうがん))が豊富に存在する場所に古墳を築いたことを示しています。
 明石市域には松が丘古墳(松が丘)【マップ東1】があります。明舞団地の多聞地区(神戸市垂水区)にあった6世紀後半の横穴式石室の古墳で、団地の開発に伴い、多くの古墳が発掘され、その一つが調査後に移築されました。横穴式石室の玄室(げんしつ)部分が入口から見て左に広がる片袖(かたそで)式のものです。

■松が丘古墳石室

 カゲユ池古墳群(藤江)【マップ中・西33】は江戸時代の新田開発に伴い造られたカゲユ池の内に残っていた6基の古墳です。明石市公設地方卸売市場の建設時に2号墳から6号墳が発掘調査されました。須恵器や円筒埴輸などが出土し、横穴式石室よりもやや古い6世紀中頃に築かれ、木棺を盛土の中に直接埋葬した直径10mぐらいの円墳であることがわかりました。1号墳(南北10m、東西16m、高さ1.2m)は調査は行わずに公園として保存されています。

■カゲユ池古墳(1号墳)

 寺山古墳(魚住町錦ヶ丘、直径約15m)は近年の発掘調査で横穴式石室であることが確認され、鳳凰文象嵌刀装具(ほうおうもんぞうがんとうそうぐ)や馬形埴輪などが出土して注目されました。同じ時期の須恵器を焼いた赤根川金ヶ崎窯跡(魚住町金ヶ崎)が近くにあることから、渡来系の技術をもった工人集団の長が葬られたと考えられています。また、かつて金ヶ崎神社(魚住町金ヶ崎)【マップ中・大24】の背後の丘陵上に、大きな石材や須恵器が散布していたことから、横穴式石室古墳と推定される文五郎塚古墳がありました。そのすぐ近くには同様の金ヶ崎古墳があったという記録も残っています。

■寺山古墳


■鳳凰文象嵌刀装具

 現在、明石市域に残っている古墳は他地域に比べて少ないですが、藤江中尾古墳のように、それまで知られていなかったが発掘調査の結果、開墾や住宅建設などにより壊された古墳の痕跡が確認される例や、寺山古墳や東山古墳(朝霧、須恵器出土)のように、既に消滅したと考えられていた古墳が改めて確認される例が増えており、今後調査が進むにつれて、古墳の実態や当時の人々の生活の様子がさらに明らかになるでしょう。