古代、推古天皇の頃、異国から鉄人が大軍を率いて攻めてきたが明石で防いだという伝承が大蔵谷の稲爪神社【マップ東6】に伝わっているのを始め、中世、南北朝時代には、後に室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)が都へ上るための軍を進め、延元(えんげん)元〔南朝〕・建武3年〔北朝〕(1336)、弟直義(ただよし)とともに大蔵谷近くに陣を張り、延元3〔南朝〕・暦応(れきおう)元年〔北朝〕(1338)には南朝方の金谷経氏(かなやつねうじ)の軍と赤松勢の軍が和坂周辺で戦いました。嘉吉(かきつ)元年(1441)、播磨を基盤とした守護大名赤松満祐(あかまつみつすけ)が都で室町幕府の6代将軍足利義教(よしのり)を殺害した嘉吉の乱においては、播磨に戻った赤松満祐の軍勢と赤松を追って来た幕府側の細川持常(もちつね)らの軍が大蔵谷や人丸塚・和坂周辺に城や砦などを築いて戦いました。(和坂城・明石構居・大蔵谷構居)
その後、天正6年(1578)〜8年(1580)に行われた織田信長による播磨攻めに際しては、織田勢の羽柴秀吉軍と三木城(三木市上の丸)を本拠地とする別所長治勢との間で戦いが繰り広げられました。それまでの明石周辺地域は播磨の名族赤松氏との関係を保ちつつ、三木の別所氏を中心として明石氏・衣笠氏・間島氏・魚住氏など在地の武士がそれぞれの領地に城や砦を築いて治めていました。しかし、天下統一を目指す織田信長が、中国地方に大きな勢力を持っていた毛利氏との戦いを始めるにあたり、別所氏が毛利氏方につき織田勢と戦うことを決めると、東播磨地域は別所氏を盟主とする体制が崩れ、羽柴(織田)方と別所(毛利)方に分かれて戦うことになりました。羽柴(織田)方には、明石氏の高畑城(神戸市西区伊川谷町)と枝吉城(神戸市西区枝吉)がつき、別所(毛利)方には、間島氏の福中城(神戸市西区平野町)、衣笠氏の端谷(はしたに)城(神戸市西区櫨谷町)がつき、さらに、魚住町中尾の住吉神社近くを本拠地にしていた魚住氏が、天正7年(1579)9月に海辺に要害の地を見立て、西島村の岡に城を構えました。ここでは、発掘調査により幅12m、深さ4.5mの堀跡が確認されています。西から船で運ばれて来た毛利方からの兵糧などの物資を別所氏の居城である三木城へ輸送するための陸揚げの中継基地として整備された城のようです。(魚住城[西島]【マップ中・大36】)
■魚住城(西島)
このように、既存の城のほかに、三木城を包囲した羽柴方の砦をはじめ、新たに城や砦が多く築かれました。また、大規模な寺院・神社や地域の有力者の館が戦時の軍事拠点として利用され、城や砦の役割を果たしました。そのため、別所氏側についた多くの寺院や神社がこの時の羽柴方による焼き討ちにより焼失したと伝えられています。(報恩寺【マップ中・大25】、稲爪神社【マップ東6】、薬師院【マップ西16】、長坂寺【マップ西1(遍照寺)】)
羽柴秀吉により播磨が統一された後、枝吉城にいた明石則実は但馬国豊岡へ移され、天正13年(1585)明石の地はキリシタン大名として知られる高山右近に与えられました。高山右近は明石川河口部の西岸にあった船上城(ふなげじょう)とそれに伴う城下町を整備しました。【マップ中・西12】
■船上城
船上城は、南には明石海峡を往来する人や物資の中継地として明石川河口から続く船入(港)を備え、北側には東西交通の大動脈である山陽道が通っていました。また、北の山間部を東西に通り、姫路と京を結ぶ最短の交通路である湯之山街道(ゆのやまかいどう)の拠点として中心的な位置にある三木へと向かう三木街道が伸びていて、まさに水陸交通の要(かなめ)の場所にあたっていました。城下町としては、東には古城川や乙樋川(おとひがわ)さらに明石川の流れがあり、西には高浜川が流れて堀の役割を果たし、北には低湿な水田地帯が拡がるという自然の地形に守られた町といえます。町中の東西の道が“遠見遮断(とおみしゃだん)”のため鍵形に折れていること、現在、町の西側に浄蓮寺・専修寺・神応寺・善国寺・宝蔵寺の寺院が町中を通る道に沿った形で東西に並ぶように所在しており、城下町の防御施設としての役割を担った寺院を西側の街道沿いに配置した名残であると考えられることから、西から攻めてくる敵を意識して備えていた城下町であったことがうかがえます。
また、古城川河口の密蔵院裏に船繋場(ふなつぎば)があったようで、港の機能も備えていました。
■古城川と密蔵院(船上)
天正15年(1587)に豊臣秀吉により発せられた、いわゆる「バテレン追放令」により高山右近は明石から追放され、以後、明石は豊臣秀吉の直轄領(ちょっかつりょう)を経て、姫路藩主池田輝政の家老池田三左衛門が治めました。
慶長(けいちょう)3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康は慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで豊臣勢に勝利し、慶長8年(1603)には江戸に幕府を開き、時代は江戸時代へと移ってゆきます。さらに、慶長20年(1615)、大坂夏の陣において豊臣氏を滅ぼすと徳川家康は名実ともに天下統一を果たしました。
徳川幕府は以後の幕府政権の安定を図るために全国大名の再配置を行い、その一環として元和3年(1617)に姫路藩から明石を独立させて新たに明石藩(10万石)を設けました。これは依然として九州や中国地方に大きな勢力を保っていた旧豊臣方の大名(西国大名)に対する押さえの役割を姫路藩(15万石)と一体となって果たさせるためのものでした。このように明石は幕府にとって重要な場所であったため、徳川家康の曾孫に当たる小笠原忠政が信濃国(長野県)松本から明石へ移され、初代の明石藩主となりました。小笠原忠政は当初、明石川西岸の船上城に入りましたが、元和5年(1619)には2代将軍徳川秀忠の命令により、明石川東岸の人丸塚の場所に新しい城とその南面に城下町と港の建設を始め、この時に現在の明石城跡【マップ東25】と明石市街地や明石港の原型が出来ました。
明石城は、段丘の南西突端部に立地し、南は明石海峡・淡路島、西は播磨灘からいなみ野台地を望むことができます。本丸には四隅に三層の櫓がありましたが、現在は西南隅の坤櫓(ひつじさるやぐら)と東南隅の巽櫓(たつみやぐら)の2棟が残っており、国の重要文化財に指定されています。天守閣(てんしゅかく)の土台である天守台は築かれましたが、天守閣は建てられず、坤櫓が天守閣の役割を果たしていました。藩主は、築城当初本丸にあった御殿で生活していましたが、寛永8年(1631)に起こった火災により焼失して以降、御殿は再建されず、本丸の南側石垣下にあった下屋敷を、周囲に堀を廻らした本格的な屋敷(居屋敷)に改築し、そこで生活しました。その入口にあった正門(切手門)が明治時代に月照寺へ移築され、今も山門として使われています。現在、城跡のほぼ全域が県立明石公園となり、本丸・二ノ丸などの主要部分は国の史跡に指定されています。
■明石城図(明石市立文化博物館蔵)
『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(兵庫県教育委員会 1982)では明石市内の江戸時代以前の城は、大蔵谷構居・明石構居・船上城・林ノ城・和坂城・魚住城(西島)・魚住城(中尾)・西岡構居が報告されています。そのうち現地調査や発掘調査等により堀や土塁などの遺構が確認されているのは船上城と魚住城(西島)で、その後の江戸時代に築かれた明石城を加えた3カ所が明石市域で確認できる城跡です。
■明石城(明石公園)