歴史的建造物は、古くから地域の景観の一部となり、その地域の歴史や文化をものがたり、多くのひとに地域のアイデンティティや誇りを与えてくれています。社会は常に変化し続けており、古い時代の建造物が原型に近い形で保存されてきたことは、さまざまな困難を乗り越える愛着と誇りが所有者および管理者に備わっていたからだと思います。
明石は城下町として発展してきた町です。明石城下の町割りは宮本武蔵(みやもとむさし)が設計したと伝えられています。武家屋敷は城郭を取り囲むように配置し、外堀により町屋と明確に分離していました。明治になり武家屋敷群を横断する形で鉄道が敷設されました。その後、空襲や大火などで多くの建造物が滅失しました。今では家老であった織田家の長屋門が武家屋敷を偲ぶことのできる唯一の建造物です。
明石の町には西国街道、浜街道など、いくつもの旧街道があります。街道沿いには宿場があり、なかでも大蔵谷は、兵庫と加古川の中間の大きな宿場でした。今でも、わずかながら宿場町の景観の特徴を引き継ぐ町屋があります。
明石は明石川以西に農村集落が多くあります。典型的な農家の形式を示した岩佐家住宅【マップ中・西25】や茅葺きの伝統的な農家の雰囲気を伝える安達(あだち)邸【マップ西9-1】があります。また、庄屋にふさわしい大規模な屋敷構えを現在まで継承している小山邸【マップ西9-2】や中山邸があります。
江井島から魚住にかけての地域には酒蔵が多くあることから、東の灘(神戸市灘区)に対し西灘と呼ばれていました。そのなかで酒蔵と主屋が一体となっている卜部(うらべ)邸【マップ中・大35】や、酒蔵は残っていませんが、酒造家の面影を残す原邸があります。
明石には明石、江井ケ島、二見の運輸港、その他に漁港があります。そのなかで二見港は江戸時代末期に村の有力者や漁師、村民の手で造り上げた港です。二見港は明石と高砂の中間にあって、この港を核とする二見の町は背後の広い地域を経済圏として繁栄しました。当時の廻船問屋であった増本邸、肥料問屋であった尾上(清茂)邸、そして広大な敷地に主屋や米蔵などが多数建っていた尾上(てる子)邸があります。