制度・日本標準時

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 明治政府は西洋の制度にならって、明治19年(1886)に東経135度の時刻が日本標準時と制定し、明治21年1月1日から施行しました。それは明治17年(1884)に米国のワシントンで開催された「本初子午線並計時法万国公会(ほんしょしごせんならびにけいじほうばんこくこうかい)」の決議に基づいたものでした。この会議では英国のグリニッジ天文台を通る子午線を世界の経度と時刻の基準となる本初子午線としたものです。
 明治43年(1910)には、地図に基づき相生町に「大日本中央標準時子午線通過地識標(しきひょう)」を建てました。しかし大正4年(1915)に日本の地図原点の東京天文台の経度に修正がなされたため、改めて昭和3年(1928)の天体観測の結果、現在地【マップ東11-1】に移されました。さらに昭和5年(1930)には月照寺前に「子午線標示柱」【マップ東11-2】が立てられ、日本の標準の場所を示すため頂にトンボをかたどった飾りがつけられました。

■大日本中央標準時子午線通過地識標


■子午線標示柱

 それは日本の古名のひとつに「あきつしま」がありトンボの古名が「あきづ」と呼ばれているためです。

■神明国道子午線標識

 昭和8年(1933)には神明(しんめい)国道(現在の国道2号)沿いに「神明国道子午線標識」【マップ東11-3】、が建てられましたが、第二次世界大戦中に金属部分が全てはずされ供出(きょうしゅつ)されてしまいました。現在では天文科学館の案内を記した板で覆われています。

■天文科学館

 昭和35年(1960)には子午線上に「天文科学館」が建設されました。日本標準時が制定されて100周年にあたる昭和61年(1986)に明石市は、パンクチュアルシティー(時間厳守都市)を宣言しました。