産業・経済

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 旗振(はたふ)り通信は江戸時代の中ごろ、全国の米価の基準であった大坂・堂島の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、さらに地方の相場を大坂に伝えるために考案されました。明石ではJR朝霧駅の北方の大蔵谷字畑山で須磨旗振山からの信号を受け、また魚住町の金ヶ崎山では神戸市須磨区と長田区の区界にある高取山からの信号を受けていました。大蔵谷では毎日「旗振りさん」が旗を持って畑山へ出かけていた話があり、魚住町金ヶ崎では「旗振りさん」が宿泊していた旅館は、望遠鏡から「めがねや」という屋号でした。旗振り通信は、通信技術の進歩に伴って姿を消しました。

■大坂堂島の旗振り通信

 林浦では、イワシの漁獲に古くから地引(じびき)網が使われてきました。持網も使用されていましたが、明治20年代に巾着網(きんちゃくあみ)の導入が試みられ、年々改良が加えられていきました。網を入れる船が2隻(せき)、魚群を探す船、獲った魚を運ぶ船など5隻程度の船団を組んで操業する規模の大きい漁業でした。イワシの大群がやってくると網船は現場に急行し、上部に浮子(あば)をつけ、下部に沈子(いわ)をつけた幅広の長い網で魚群を囲み、網をたぐり寄せて魚を捕獲しました。そのとき下部に環をつけておき、絞るようにして魚が逃げるのを防ぐところから、巾着網とよばれました。一度にたくさんの魚を獲ることができたので、イワシの大漁に林の浜は活気づきました。それを記念する碑が林小学校の校庭に建てられています。

■巾着網記念碑


■昭和47年の巾着網漁(林コミュニティー・センター提供)