伝承としては、明石の地名由来に関係した『赤石の碑』や、古代の明石の生活を知る手掛かりになる“海人(あま)・男狭磯(おさし)”の話があり、以前にあった「海人塚」の跡を伝える石碑があります。
明石の文学遺跡としては、まず『源氏物語』関連の遺跡です。文学ですから史跡ではありませんが、『源氏物語』に魅せられた文学好きの5代藩主松平忠国が光源氏、明石入道にちなんだ文学遺跡を作ったといわれています。無量光寺(むりょうこうじ) 【マップ東33】 近辺には光源氏が明石の君を訪ねた“蔦(つた)の細道”や明石入道の館跡、月見をしたという朝顔光明寺 【マップ東23】 などがあります。
■無量光寺と蔦の細道
『源氏物語』の作者、紫式部と文学のライバルだった歌人、和泉式部の伝説が明石市魚住に伝わっています。姫路の名刹・書写山円教寺(えんぎょうじ)に詣(もう)で、開基・性空(しょうくう)上人と仏縁を結んでの帰りに、式部は明石の長坂寺に立ち寄りました。ここで、寂心(じゃくしん)上人(慶滋保胤(よししげやすたね)、性空上人の学友)と出会い、先に夭逝した娘の小式部内侍(こしきぶないし)に一目会いたいと祈り、線香の煙の中に小式部の姿を見たといわれています。都に帰った式部は、小式部が生前、歌の力で甦(よみがえ)らせた宮中の松を長坂寺に移す許しを天皇から貰い、長坂寺に移植しました。魚住には「小式部内侍祷(いのり)の松」道標 【マップ西4-2】 と小式部内侍を祀った五輪の供養塔 【マップ西4-1】 が残っており、松平忠国が歌碑を建てました。
ところで、『源氏物語』の文学遺跡を京、大阪に広めたのが江戸時代の俳人・曾良(そら)です。曾良は師の松尾芭蕉(まつおばしょう)とともに『奥の細道』に同行したことで知られ、その芭蕉も『笈(おい)の小文(こぶみ)』で明石を訪れて、それを偲ぶ「蛸壺や儚き夢を夏の月」の句碑が柿本神社山門前にあります。芭蕉は歌枕を訪ね、西行(さいぎょう)法師や柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)らの歌人の跡を訪ねて旅をしたといわれています。
■芭蕉の蛸壺の句碑
この柿本人麻呂を祀る柿本神社境内には歌聖(かせい)といわれる人麻呂の萬葉集歌「天ざかるひなの長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」の歌碑がある他、市内には明石と縁の深い人麻呂の歌碑が各所にあります。
■人麻呂の歌碑
■両馬川古戦場の碑
柿本神社の東側の坂に沿って、『平家物語』に関係した塚・石碑が立っています。坂に並行して以前は流れていて、今は暗渠(あんきょ)となっている両馬川近辺を平薩摩守忠度(さつまのかみただのり)の古戦場とする石碑 【マップ東9-1】 や、須磨一の谷の合戦で悲運の最後をとげた無冠の太夫・平敦盛(あつもり)の兄で、当代随一の琵琶(びわ)の名手といわれた経正(つねまさ)の馬塚旧址の石碑 【マップ東9-2】 が道の両脇に立っています。ここから少し南へ下がると、忠度が討たれる時に切られた右手を埋めたと言われる腕塚神社(昔はこの辺りを右手塚町=うでつかちょう) 【マップ東10-2】 があり、さらに国道2号線を越えて南へ行くと忠度塚の跡 【マップ東10-1】 (昔は忠度町=ただのりちょう)があり、松平忠国が修復した忠度の供養塔などがあります。『平家物語』の主人公で、播磨守として播磨に所領を持っていた平清盛の供養塔も善楽寺 【マップ東32】 にあります。ところで、琵琶法師が語る『平家物語』を今に残る文学としてまとめたのが、明石出身といわれる室町時代の覚一(かくいち)法師で、覚一はその功績で盲人(もうじん)としては初めて検校(けんぎょう)の位を受けており、『平家物語』と明石の関係は深いようです。
■休天神の菅公踞石
また、休天神(やすみてんじん) 【マップ東8】 は平安時代のスーパスターで学者・歌人・詩人・政治家だった菅原道真を祀っていますが、この社を創建したのは、道真を仰慕(ぎょうぼ)した6代藩主松平信之(のぶゆき)です。休天神境内にある「菅公踞石(こしかけいし)」は道真が明石の駅家に立ち寄った際に休んだ石といわれ、明石駅長が道真死後に、偲んで石の側に祠を建てて祀り、それを信之が天神社としたといいます。菅原道真に関しては昭和8年(1933)に太寺に建てられた「菅公旅次遺跡」の石碑があり、二見には「仮寝(かりね)の丘の旧跡」 【マップ西20】 もあります。
■中崎公会堂
近代以降の文学遺跡として、明治の文豪、夏目漱石が杮落としで講演した「中崎公会堂」 【マップ東12】 があり、国登録有形文化財に登録されています。
また、ここから東に行った大蔵谷宿場(しゅくば)町の中にある西林寺 【マップ東4】 には、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)6月に作家の永井荷風(かふう)が友人の世話で、東京から疎開してきました。しかし、明石も空襲 【マップ東表面下部】 を受け数日間だけの疎開滞在となり、さらに西に足を伸ばし、岡山に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねている時に敗戦となりました。
古代から現代までの文学にちなんだ遺跡をたどってきましたが、大昔からの言い伝えを碑として記憶に残しているものがあります。
■赤石の石碑
明石の地名由来となった、「赤石の碑」もその一つです。松江海岸の沖合15mの海中に大きな赤石があり、碑には「明石の地名はここからきた」と記してあります。林神社 【マップ中・西9】 には羽柴秀吉も見物に来たという記録があります。赤石には悲しい男女の悲恋物語の伝説があり、岩屋神社 【マップ東28】 の「おしゃたか舟」の祭の時も赤石辺りまで、ご神体をお迎えに行く神事が続いています。
海の底の話と言えば、明石と海との関係を物語る「海人(あま)の男狭磯(おさし)の墓」の言い伝えがあります。この墓は戦前までは明石市大観町の無量光寺の境内にありましたが、昭和20年(1945)の明石大空襲でなくなったままです。
■無量光寺の海人男狭磯塚の石碑
5世紀の中頃、允恭(いんぎょう)天皇が淡路島に狩にきましたが、一匹も獲れません。占うと神様のお告げがあり「赤石の海底にある真珠を取って祀ると大猟になる」といったので、各地の海人を集めて潜らせましたが、誰も海底にまでとどきませんでした。
ただ一人だけ阿波の国の海人・男狭磯が海底まで潜ることができ、大きなアワビを見つけました。男狭磯は再度潜り、やっとアワビを取りましたが、息が絶えて死んでしまいました。アワビを開けると中から桃くらいの真珠が出てきて、神に捧げると大猟になりました。允恭天皇は男狭磯の墓を造り手厚く葬ったと『日本書紀』に書いてあります。この男狭磯の墓が「海士塚」として、無量光寺にありました。男狭磯の墓は、ほかに淡路島の岩屋と徳島県板野郡里浦に「海人塚」として祀られています。この海の底の伝承は、大陸から伝わった「海士」の漁法をもつ漁民が徳島、淡路、そして、明石にいたことを伝えています。岩屋神社に伝わる岩屋の神を淡路より迎えたという神事「おしゃたか舟」も淡路と明石との繋がりを物語っています。