仏教が伝えられた時代は、大陸の戦乱の余波で多くの渡来人が海を渡って訪れ、同時に彼らの信仰する仏教や道教など色々な宗教や文化がもたらされました。各地で根付いて行った仏教は、外交ルートで伝えられた以外にも伝来したと考えられます。
白鳳、天平時代のいわば仏教伝来の初期に建てられた寺の跡、廃寺が兵庫県内には29カ所確認されていて、播磨22、摂津(せっつ)4、但馬(たじま)・丹波・淡路が各一カ所となっています。播磨のように太寺廃寺【マップ東13-1】など20以上もあるのは大和(やまと)・山城(やましろ)・河内(かわち)・近江(おうみ)の先進地域です。寺があるというのは僧侶も居て、寺を建てる技術、仏像を作る技術があったわけで、その時代の最先端のテクノロジーが渡来人によって伝えられて定着し、広められていきました。
584年に蘇我馬子(そがのうまこ)は弥勒菩薩(みろくぼさつ)を安置した寺を建て、その僧として全国から探し出されたのが播磨の高麗僧・恵便(えべん)でした。仏教伝来の初期には全国各地で、その土地に寺院を建てて仏教を広めていったご当地独特の僧侶の存在が伝えられています。兵庫県では7世紀頃に播磨を中心に丹波、但馬、摂津、淡路のほぼ全域に渡り130カ寺の寺院を開基したと伝えられる法道仙人(ほうどうせんにん)の伝説が多く伝えられ、明石では善楽寺【マップ東32】を開いたといわれています。また、明石の地名のいわれは、法道仙人がインドから中国を経て、日本の明石に上陸したから、その地名となったそうです。法道仙人は今の国道175号線に沿って北上しながら仏教を広め、最後は加西市の法華山(ほっけさん)一乗寺にたどりついたとされています。この他、日本に仏教を伝えたとされる朝鮮・百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の王子、童男行者(どうなんぎょうじゃ)も明石に上陸した後、仏教を広めて、神戸市北区山田町の明要寺などを開き、法道仙人開基の三木市志染町の伽耶院(がやいん)の本尊・毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)(国重文)を作ったと言われています。明石は仏教伝来の初期の頃から、仏教との縁が大変深い土地です。
■法道開基伝承の善楽寺
東大寺の大仏造立の際、その難工事を任されたのが百済系渡来人の流れにある民間の僧侶、行基でした。行基はその布教の影響力の強さから反逆者として扱われていたのを、聖武天皇は罪を許して大僧正の位を与え、大仏造立の助けを乞いました。行基は仏教を広めるだけでなく、港や橋を作って人々を助けたり、病院施設なども作ったといわれ、明石の魚住泊【マップ中・大37】など「摂播五泊」も行基が作ったといわれています。市内には魚住のぼたん寺で知られる薬師院【マップ西16】など行基開基の寺院は多く、「上人(しょうにん)さんの波止」や「行基橋」などに名前を残し、多くの伝説も伝わっています。
■薬師院(ぼたん寺)
奈良仏教に続いて平安時代には最澄(さいちょう)・伝教(でんぎょう)大師の天台宗、空海・弘法大師の真言宗が新しい仏教として広がりました。弘法大師が創建したとされる和坂の坂上寺【マップ中・西5】や、弘法大師の霊水【マップ西28】、蟹が坂の話【マップ中・西4】などが伝えられています。
■坂上寺
仏教は鎌倉時代になって、天台宗で学んだ僧侶の中から新しい仏教を広める動きが起こり、浄土宗、浄土真宗、時宗、禅宗の臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞(そうとう)宗、日蓮宗が鎌倉新仏教として庶民にも広がって行きました。これに対抗して、奈良の昔からの仏教も新しい流れを作り、羽柴秀吉の戦乱で廃寺となり近年、発掘で存在がクローズアップされた、大久保の報恩寺【マップ中・大25】(開基は初めに紹介した高麗(こうらい)からの渡来僧・恵便といわれています)など律宗寺院も各地に造られました。
江戸時代になり、寺院は葬式だけでなく民俗行事と係わりながら人々の暮らしの中で重要な役割を果たしてきました。また、江戸幕府が寺請(てらうけ)制度により寺院を行政機構の一端に組み込んだほか、寺子屋として地域の教育施設としても機能してきました。ただ、そこにある寺院が大昔から続いてきたというよりも、天災、戦災で場所が幾度と移りました。例えば江戸時代初期の明石城下の地図を数枚、見比べて見ても、同じ所に同じ寺院はなく、藩主の国替えによって侍だけでなく、商人、寺社の関係者もそっくりと移動していたので、新しい藩主になると、違う宗派の寺院が入ることも、多々ありました。
この他、御利益のある寺院は、「太山寺道」(本書13「道と道標」の項を参照)のように人々が参詣する(日帰り旅行的な余暇としても)道筋が各地からつくられ、多くの道標に導かれて通いました。