10.供養塔・塚

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 鎌倉時代以降の新仏教の広がりとともに、仏教の布教者が全国を回り、その土地の信仰者と五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などを建てて、土地の悪霊(あくりょう)の祟(たた)りを鎮め、道中の安全や、日々の暮らしの安寧を願いました
供養塔イメージ

供養塔map

 源平の合戦以降、この国は鎌倉から室町、戦国時代を通じて戦乱の世が続きました。平安代以降の怨霊(おんりょう)、御霊(ごりょう)信仰が民間に広まる中で、塚や供養塔を立て悪霊を鎮(しず)めて来ました。民俗学者の柳田国男(やなぎだくにお)は供養(くよう)の塚は、そこに埋められているのが誰かというより、塚・供養塔のある場所に意味があり、その場所を人々は祀るべき必要のあるところとして塚などを建てた、と指摘しました。その場所については、国境、大字境、村境と“境界”に建てられることが多く、その土地の意味を調べる必要を説きました。
 例えば全国に200近い墓があるといわれる平安時代の女流歌人・和泉式部(いずみしきぶ)の墓は、京都・新京極(しんきょうごく)の誓願寺誠心院(せいがんじせいしんいん)(浄土宗)の女性宗教者が全国を回って、水辺に建てたといわれています。それは、和泉式部の“和泉”に“水の言霊(ことだま)”を感じたのかもしれません。その他に災害による交通の難所、戦場の跡などにも建てました。明石市魚住町にある和泉式部の娘で夭逝(ようせい)した小式部内侍供養塔【マップ西4-1】の話と関係している長坂寺の末寺、遍照寺も京都の誓願寺と同じ宗派の流れにあります。この小式部供養塔にお参りすると“腰痛”が治ると伝えられているのも、「小式部=こしきぶ」の“こし”と“腰の言霊”からきているのでしょう(ダジャレというより、昔の人は言葉の力と考えてきました)。また、これは地蔵信仰の身代わりとも似た、ご利益(りやく)なのかもしれません。
小式部内侍供養塔と道標1 小式部内侍供養塔と道標2
■小式部内侍供養塔と道標

 ところで、明石市内とその近辺には平家物語・源平の合戦にからんだ武者たちの供養塔が多く伝えられています。悪霊にならないよう祀られるべき魂として、敗者の平家一門の武将たちの供養塔が建てられていったのでしょう。ある意味、“判官びいき”の日本人の敗者に寄せる心根の表れともいえます。

■忠度塚

 明石市内では、歌人で武者としても勇猛だった薩摩守平忠度(ただのり)(平清盛の弟)の墓(昔は塚といっていた)と腕塚神社 【マップ東10】 があります。『平家物語』では「一の谷の合戦で忠度は源氏の岡部六弥太忠澄(ただずみ)と馬を並べて渚を走り抜けていき、取っ組み合いの末に、右手を切落され、最期と覚悟をした忠度は南無阿弥陀仏と唱えて首を打たれました。六弥太は打った相手の名前がわかりませんでしたが、簸(えびら)に結び付けられた短冊の和歌“行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度”から平家の大将の一人、薩摩守忠度とわかりました」。忠度の死を悼んだ人たちがその右腕を埋めた所が腕塚といわれています。今ある腕塚神社には木製の右手が奉納されていて、これで痛い所や悪い所を撫でると治るといわれてきました。昔は「右手塚町=うでつかちょう」という地名でしたが、今は天文町になっています。(地名を惜しむ地元では右手塚自治会として名前を残しています)。

■腕塚神杜

 ここより国道2号線を越えて南に行くと「忠度の墓」(天文町、昔は忠度町)があります。この南北のラインに沿って暗渠となっているのが「両馬川(りょうばがわ)」で、忠度の最後の合戦地と伝えられている石碑が建っています 【マップ東9】 。この碑と道を挟んで筋違い少し北側に「平経正(つねまさ)馬塚旧趾」の石碑が建っています。経正は平清盛の弟、経盛の嫡男で、一の谷で非業の最期を遂げた無冠の太夫・敦盛(あつもり)の兄です。大蔵谷の合戦で討ち死にした経正の愛馬が埋められ供養した跡といわれています。以前は現在の場所の東南の所に塚があったといわれています。

■平経正馬塚旧趾

 平清盛の供養塔が善楽寺 【マップ東32】 にありますが、これはここで清盛が亡くなったというのではなく、清盛の病死後、播磨守として善政を行った清盛を悼んで供養塔を建てたということで、忠度、経正の愛馬の塚とは祀られ方が違うようです。

■平清盛の供養塔

 経正の弟、敦盛の最期の地須磨一の谷の近くに「敦盛塚」があり、大きな五輪塔が建っています。『播磨名所巡覧図絵』(江戸時代)には「この塚は敦盛の墓ではなく、アツメ塚」だと紹介され、絵をよく見ると、敦盛塚の周りに石積みをしている人が描かれています。まるで、賽(さい)の河原の石積みのようです。

敦盛塚

 須磨区の隣、長田区には忠度の「腕塚堂」「胴塚」があり、忠度の腕や胴を埋めて供養したといわれています。この「腕塚堂」には以前、小石が積んであり、願をかけて小石を一個持って帰り、願が叶(かな)うと倍の小石を祀ったといわれています。明石の腕塚神社も今の所に移される前は祠に小石があり、長田と同じ方法で願をかけていたそうです。
 柳田国男がいうように、塚と呼ぶ供養塔が境での祀りなら、敦盛塚はまさに播磨と摂津の境にあり、近畿の内外の境にあたります。また、長田の胴塚(忠度塚ともいう)、腕塚は大字の境界に建てられています。すると、明石の両馬川(柿本神社の東の坂)に沿って並んでいる「忠度塚」「腕塚神杜」「経正馬塚」は“何の境・境界”を示しているのでしょうか。城下町以前の明石の中心、大蔵谷の宿場町の西のはずれ周辺ではないかと思います。
 現在、塚と呼ばれているものの多くが墓石だけ建っており、「忠度塚」というよりは「忠度の墓」といった方がわかりやすいのです。しかし、先に紹介した『播磨名所巡覧図絵』を読み解くと長田区の「忠度塚」は塚の上に石碑が建っており、加古川市野口町坂元にある「和泉式部の墓」も今は墓石だけが旧西国街道沿いに建っていますが、『播磨名所巡覧図絵』ではちゃんと塚の上に墓が建っています。旧明石郡の供養塔で最大級の垂水区にある「遊女塚」も今はJR垂水駅北西の共同墓地に大きな五輪塔として残っていますが、『播磨名所巡覧図絵』では五色塚古墳の大きな陪塚の上に立っている姿が描かれています。道路の拡張や鉄道の敷設、土地の区画整理などで動かされるたびに塚はなくなり、石塔だけが残って、お堂や祠に祀られてきたのでしょう。
敦盛塚 和泉式部の墓
敦盛塚 和泉式部の墓
 
遊女塚(垂水区) 忠度塚(長田区)
遊女塚(垂水区) 忠度塚(長田区)
『播磨名所巡覧図絵』

 この他、塚と呼ばれるものには和坂の地名伝承の「蟹塚(かにづか)」 【マップ中・西4】 の話があり、弘法大師伝説ともつながっています。今は名も残っていませんが、昔は池の中の小島に塚があったそうです。これも、明石の西側の坂で、位置的にも、地理的にも坂と言う境界に建てられた塚です。

■蟹塚

 柿本神社も今の地に建てられる前は、明石城の本丸の所にあった人丸塚を築城の時に移したもので、城趾には人丸塚の跡が残されています。ここも、地理的には台地の西端の崖の上で、いわば境界の土地といえます。

■人丸塚の跡

 古い伝承と、山伏(やまぶし)の信仰が重なり合って生まれた塚が松江の「山伏塚・教額院」の話です。林崎には大昔、大蛸(おおだこ)が現れて美しいおきさきを狙い退治されたという話があり、その大蛸は逃げる時に松江あたりで山伏に化けましたが、武士に退治されて石になりました。ここを山伏塚といって村の人は祀ってきました。また、昔この近くに教覚さんという山伏が住んでいて子供たちを非常に可愛がり、死後この地に埋められ、その後、子供がはやり病にかかった時に、ここに祈ると不思議に治ったといいます。

■与次右衛門の墓の供養塔

 庶民を供養した石塔が魚住町清水にあります。一つは清水新田の「与次右衛門(よじえもん)の墓の供養塔」 【マップ西19-1】 で、江戸時代初め、水利の便の悪かった清水新田に私財を投げ出して灌漑(かんがい)用水を引いた与次右衛門の供養塔です。与次右衛門は灌漑用水完成後に村を出て亡くなり、それを知った村人が供養に建てたものです。その気持ちは今も続き、毎年2月の命日には僧侶を呼び供養をしています。大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔は個人の墓ではなく、供養のために地域の人と僧侶などが一緒になって建て、その場所の安全を願ったといわれています。清水新田には西国街道沿いに大きな江戸時代の宝篋印塔 【マップ西19-2】 があり、道中に行き倒れになった旅人の供養に建てたといわれています。ふるさとに帰れずに他国の地で亡くなった人の無念な気持ちと、その気持ちから悪霊になって祟らないようにと手厚く供養をしたのでしょう。

■清水の五輪塔

 清水地区の西国街道沿いの墓地に、県指定文化財で室町時代の銘の刻まれた「清水の五輪塔」 【マップ西14】 があり、南北朝の戦で亡くなった人の供養のために建てられたと伝えられています。

■かつての源太塚

 この他、「源太塚」 【マップ西27】 と呼ばれている場所があります。以前は古墳時代後期の群集墳ではないかと見られていましたが、発掘をした結果、近世の墓地だとわかりました。これも、墓石を建てて参る墓ではなく、死者を埋葬するだけの墓地です。近畿地方を中心に西日本に多い、“両墓制(りょうぼせい)”といわれる埋葬形態です。死者がでると、村境の川辺、山際、海辺などにある死者を埋めるだけの墓地に埋めました。“サンマイ”“ウメバカ”“センド”と呼ぶ埋葬専門の墓地です。埋めた後は、盆、年末、彼岸くらいしか訪れず、お参りするのは家や寺の近くの共同墓地で、“マイリバカ”などといい、この墓地には祥月命日など日頃からお参りをします。両墓制は死者や死後の世界に対する考えなどから起こった埋葬法の一種で、日本人の霊魂観、死生観を考える手がかりとなります。今でも明石市内各地に埋めるだけの荒涼(こうりょう)とした墓地が点在しています。
 ところで、この塚の成立の原点の一つに、神戸市須磨区の多井畑(たいのはた)厄神があります。奈良時代の終わり神護景雲(じんごけいうん)4年(770)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10カ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除(やくよけ)八幡宮は古山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられています。

■多井畑厄神の疫塚

 なお、後世に塚と呼ばれた古代の古墳のある場所も、ひょっとすると地域の王たる死者が、死後も地域を守るため、見晴らしの良い所や、守るべき場所に古墳を造営したとするなら、その地が境界の地である可能性は充分あるようにも思えます。