酒造りの歴史は古く、『江井ヶ嶋酒造八十年史』によると、江戸時代初期の延宝7年(1679)の幕府酒造株改めに50石と記録されています。その後、次第に酒造家が増え、天明8年(1788)には14軒、4,000石に、明治に入ると、27軒、2万石近くに達しました。
■江井ヶ嶋酒造
明治18年(1885)には井戸水が分析され、その水質は酒造りに最も良い灘の「宮水」と同じという結果があり、お寺の境内に多くの井戸があったことから「寺水」と呼ばれました。今でも江井島の定善寺 【マップ中・大32】 の山門前に井戸が残っていて、当時は毎日のように水運びの牛車が往復していたといわれています。
■太陽酒造
酒造りの原料となる米は、播磨地方の酒米が評価が高く、中でも「谷米」と呼ばれ明石の北部で採れる米「山田錦」は全国的に有名です。このように「米」「水」「気候」など酒造りに対しての好条件が明石には備わっていました。そして明治30年(1897)にこの土地で新酒の利き酒会が開かれ、当時の斬新な催し物であったことから各地で品評会が開かれるようになったと伝わっています。
■茨木酒造
現在、明石市内には江井ヶ嶋酒造をはじめ太陽酒造、西海酒造、大和酒造、明石酒類醸造、茨木酒造などの酒造業者が操業しています。蔵などが兵庫県登録有形文化財に指定されている茨木酒造 【マップ西12】 は、瀬戸川沿いにあり、嘉永(かえい)元年(1848)創業と伝えられる老舗蔵(しにせぐら)です。敷地面積約4550㎡の中に6棟の酒蔵と洋館が建っています。精米所、仕込み蔵、澄まし蔵は明治中期の竣工で、事務所と引き返し蔵、瓶詰め場は大正初期に建てられたと推定されます。地域の景観形成に寄与し、江戸時代以降に栄えた明石の酒造業の様相を物語っています。
酒造場の中には季節ごとにイベントを開催したり、一般には市販をせずに「樽売り」(オケ売り)専門であったり、伝統をつないでいくためそれぞれ独自の経営をしています。
また明石市は平成25年(2013)11月に、清酒による乾杯の習慣を広めることにより、伝統産業の振興と地域を活性化することを目的とした市の条例「明石市の伝統産業である清酒による乾杯の普及の促進に関する条例」を制定しています。