古代山陽道

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 大宰府と都を結ぶ道であるため外国使節の往来もあり、朝廷の力を誇示する役割も備えた、国の力で造られた計画道路です。道幅は10m以上あり、可能な限り直線で通され、沿道には約30里(16km)間隔で瓦葺(かわらぶき)の駅家(うまや)(休憩・宿泊施設)が設けられていたことが近年の発掘調査などの成果により明らかになりつつあります。明石市域では二見町福里【マップ西26】において「古代山陽道跡」が確認されました。道幅は当初は14mでしたが、後に9mと狭くなり、時代の変化が道にも現れています。隣接する稗沢池の中を東西に横切る堤防は、古代山陽道の痕跡であると推定されています。

■古代山陽道跡(福里)

 また、古代山陽道推定地に近接している長坂寺遺跡(魚住町長坂寺)【マップ西2】は、古くより多くの古瓦が出土することで知られていましたが、近年の発掘調査により築地跡等が確認され、明石駅家と賀古駅家との間に設けられた駅家の跡で、10世紀初めに廃止されたものであることが分かりました。
 その後、朝廷の力が弱体化するにつれて地方領主の力が強くなり、分国経営の時代へと変わると幅の広い直線道路は維持管理することが困難になり、領国内や隣国間の人々の日常の往来をはじめ物資の移動など、必要最低限の道幅と地形に応じたルートへと徐々に変化していったと考えられます。