徳川道(西国往還付替道)

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 江戸時代末期、西国街道の沿道にある兵庫(神戸)を外国に向けて開港することが決まったのを受けて、文久2年(1862)8月に横浜生麦(なまむぎ)村で起こった薩摩藩士とイギリス人との衝突事件(生麦事件)を教訓にして造られた西国街道の迂回路です。開港地となる兵庫(神戸)を大きく迂回するために六甲山中を通過する道で、大蔵谷から西国街道と別れ伊川谷・藍那(あいな)・小部・摩耶山を経て神戸市東灘区御影石町で西国街道に合流するルートで計画されました。慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)の開港に間に合わせるため工事期間は約2カ月間という短いものでしたが、既存の山道を利用して整備したことにより完成させることができました。しかし、その後、外国人居留地周辺だけを小さく迂回する道が整備されたことにより、往還道としてほとんど使われることなく8月に廃止されました。
徳川道