14.川と橋

76 ~ 78 / 94ページ
川が単に自然物として流れているのではなく、人々の暮らしの中で大きな意味を持っているのに気が付いたのは、平成7年(1995)の阪神淡路大震災の時です。大きさに関係なく、どんな川でも渡るたびに、地震の被害が変化していった事を覚えています。川は大きな壁となって地震の被害を弱める緩衝となっているのではと思いました。石器時代の昔から、人々が住む所を探す時には水を得やすい場所が第一の条件で、水・川を基準に暮らしを考えてきました。
川と橋イメージ

川と橋map

 縄文時代では漁労採集、弥生時代になると水稲栽培と、水・川との関係はさらに深く濃くなり、今に至っています。考古学での文化圏を川筋を使って分類したり、民俗学で祭や民謡などを“○○川系”と分類したりするのも、川が文化の伝播と深く関わっていたからでしょう。また、古代より瓦や陶器など重たい物を大量に運ぶのに陸上輸送より船を使ったことは充分考えられ(近世以降でも瓦や蛸壺は海辺で作って直に海路で運搬していた)、川の近くや海辺に窯跡が多く見られます。今回、文化財マップを作るための調査で市内を歩き、川がいかに人々の暮らしの中で生き続けているかを実感しました。
 川が町と町、大字と大字の境となっています。また、松江川のように松江地区という小さな地域の真ん中を流れ、暮らしぶりを東西の地域に分けています。また、台地、段丘の上に成り立っている明石西部地域では、川は農業の生命線となる用水路となっており、また、水の無い所ではため池、疎水からの水路が毛細血管のように張り巡らされていて、まさに、水と水路と川が暮らしの中に溶け込み、脈々と流れています。明石の川を東から見てみると「朝霧川」「明石川」「高浜川」「赤石川」「東松江川」「西松江川」「藤江川」「谷八木川」「赤根川」「中尾川」「瀬戸川」「清水川」(瀬戸川の支流)「城の川」。行政の土木的には“川”と言うより“溝”に近いかも知れないような小さな流れでも、地域の人にとっては“川”です。子どもの頃に小鮒(こぶな)やドジョウを捕った童謡の『春の小川』は用水路ではなかったかと思いますが、子どもにとっては“川”として記憶に残っているのです。
 また、地図にも水色で川として表記をされないのに、人々の記憶に残っている、現在は目に見えない川もあるのです。源平の古戦場跡として知られている両馬川(りょうばがわ)はどこにあるのでしょうか。山陽電車の人丸前駅の高架下に「両馬川旧跡」の石碑【マップ東9-1】があり、その後ろの南北の小高い溝渠(こうきょ)の地下に、両馬川がひっそりと流れ、海に注いでいます。昭和30年代はこの川で良く水遊びをしたという話を、70歳以上の方から何度も耳にしました。でも、文化財マップの東部編をよく見て下さい。『幕末の明石城下復元図』【マップ東 表面上部】には右端に両馬川はちゃんと流れているのです。

■昭和46年 両馬川と人丸前駅(『ふるさと写真帳』より)

 ところで、人は川を徒歩や泳いで渡れない時は橋を架け、渡し船を設置するなどしました。人や物や文化が川を渡り、橋を越えて行き来しました。ただ、橋は大きな都市の街中は別として、歴史上、東海道や山陽道などの主要道路でも、橋が架けられることは珍しいことでした。橋を造るには莫大な人と費用が掛かるうえ、架けても洪水で流されてしまうという経済面の損失と、さらにそれと軍事上の観点からも、治政者は橋を架けることに躊躇(ちゅうちょ)し、江戸時代は大きな川に橋を架けさせなかったのです。橋は古代より戦場にもなり、事故や天災、人災で落ち、また、流失することも多かったようです。このように考えようによっては非常に不安定な建築物であることから、橋の管理を神社や寺院が行うことが多く、京都の四条大橋は祇園(ぎおん)神社、五条大橋は清水寺が管理に当たっていました。また、宇治市の橋寺や西宮市の浄橋寺(生瀬橋の管理・運営)等もその例です。
 一方、寺社に作られている橋は供養のためのものが多く、橋には施工日・施主名・石工(いしく)名が刻まれます。明石市内では魚住町の薬師院に「元禄8年(1695)」の銘のある橋があります。

■薬師院の橋

 また、明石川には幕末に「大観橋」「嘉永橋」が架けられました。「大観橋」は天保15年(1844)に立派な木橋に改修され、人々が大変歓び「大歓橋」と当初は呼んでいました。「嘉永橋」は嘉永7年(1854)の地震で壊れた永久橋を再建して以降、「嘉永橋」と呼ばれました。「大観橋」、「嘉永橋」とも大きな街道に架かる橋としては、当時としては珍しいもので、江戸時代を通じ架橋の建設を認めなかった幕府に大きな変化があったのかもしれません。

■大歓橋の親柱


■嘉永橋

 今、明石市から淡路島を望むと世界一の明石海峡大橋が眼前に広がります。兵庫県南部地震でもびくともしなかった現代工学の粋が長年の夢であった本州と淡路島を結びました。一方、この大橋を望む大蔵海岸の陸橋での事故は、痛ましい橋の事故でした。橋の持つ未来性と不安定さ、そのことをこの二つの橋は今に伝えています。

■大蔵海岸陸橋の事故の供養の像


■明石海峡大橋

 文化財マップは二年目以降、各河川に架かる主な橋の名前を記載し、人と橋のつながりを紹介しましたが、一年目の明石川東部のマップでは橋の名前を詳細には載せられませんでした。例えば朝霧川に架かる47本の橋の内、名前の付いているのは12カ所です。昭和62年(1987)に調査した時と現在では橋は5本増え、当時名前のある橋は5カ所だけでした。また、当時名前は付いていましたが、今は無名となってしまった橋(マンション名と建設社名が付いていた)もあり、橋にも歴史の浮き沈みがあります。それは、昭和3年(1928)に国道2号線に架けられた朝霧川の橋でさえも、現在では川が部分的に暗渠(あんきょ)となったために、橋の欄干(らんかん)だけが残っています。

■国道2号線に残る朝霧橋の欄干

 明治時代になると、陸上輸送が発達し、軍事上(日清・日露両戦争)の運送路の確保が急務とされました。そして、鉄道が普及していく中で、コンクリート製の橋や鉄道橋が各地に造られるようになり、橋が身近に存在するようになりました。鉄橋では明治23年(1890)に九州鉄道株式会社がドイツに発注した鉄道橋が、JR西明石駅の明石操車場の跨線橋として使われていました。その後、小久保の公園に移設保存され、現在では国の登録有形文化財に登録されています。【マップ中・西27】この鉄橋工事に関わった横河橋梁製作所は近代以降の架橋敷設のパイオニアで、創業者・横河民輔(よこがわたみすけ)は明石市二見の出身です。横河橋梁は後の横河ブリッジを含めると、東京の勝鬨橋(かちどきばし)、皇居の二重橋を初め、明石海峡大橋の建設にも関わっており、橋と明石は深い縁があります。跨線橋では、明石・朝霧駅間のJR山陽本線を跨いでいる通称“黒橋”があります。これは蒸気機関車の煙によって橋が黒くなったので“黒橋”と呼ぶようになったという話もあります。
 橋も川も、その地域の歴史と深く関わっています。文化財マップの河川に記入されている橋の名前を一つ一つ見ていると、そこに暮らしている人々と川や橋への思いや、関わりが見えてきます。例えば−谷八木川河口付近の「極楽橋」、この橋を渡るとどこに行くのだろうか。上流の「一ツ目橋」、妖怪が出るのだろうか。赤根川河口近辺の「学校橋」、どんな子どもが渡ったのだろうか。そのすぐ上にある「行基橋」、行基さんが通ったのか、それとも造ったのか−などなど。近年、字名がなくなっていき、新地名になる中でも橋の名前に昔からの地名が残っていて、歴史が見えてくるときがあります。瀬戸川の明姫幹線の南側に架かる「大見橋」を見て、『万葉集』などに出てきて、聖武天皇が行幸した仮宮を建てたといわれている「邑美=おおみ」はこの近くなのだろうか、歴史への想いが膨らんでいきます。
 小さな橋にも名前があり、その名前から色々な想像を巡らせ、その地に実際に行ってみて、確かめてみるのも歴史を知り、マップを見る楽しみでしょう。(橋は明石市土木総務課「橋梁調書」を参考にさせていただきました。)

■行基橋