復元された今から4,000年前頃の明石川周辺の地形環境をみていますと、明石川によって運ばれた土砂が河口の東西に細長く堆積して砂嘴(さし)を形成しています。そして、砂嘴の背後に海が入り込んで入江となっていて、港とするのに最も都合のよい条件を備えています。海は、このように地形を変化させつつ、現在の海岸線まで後退していきました。このエリアを明石市の『地震災害ハザードマップ』でみると、標高3m以内の地形が東は山電大蔵谷駅、西は林小学校まで広がっています。砂嘴の名残といえるでしょう。同様の地形は、藤江川・谷八木川・赤根川・瀬戸川の河口周辺にも認められます。その一方、林崎から二見までの海岸は標高20m近い海食崖が続くことから屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれていますが、この海岸は浸食が激しく、江戸時代から比べると陸地が100mは優に後退したという話も残されています。古代から、港は河川の洪水や海岸線の後退・浸食にあわせ、港湾の位置を移して新たに設置したり、機能を縮小させたりしながら、やがて姿を消していく港もありました。このようなことから、現在の地形をもとに古い記録に記された港を探しあてようとしても、なかなか推定の域を超えることができません。
古地理復元図 4,000年B.P.頃『玉津田中遺跡』(1984年)より