■大蔵中町遺跡の瓦積み井戸
古代山陽道の駅家(うまや)との関係で注目されていますが、港の関連も気になります。藤江別所遺跡【マップ中・西35】からは、古墳時代の車輪石(しゃりんせき)(石でつくられた腕輪、弥生時代につくられたカサガイという貝輪がモデル)、9面の銅鏡など貴重な遺物が出土しています。車輪石は、形態的には4世紀末から5世紀はじめにつくられたと考えられ、五色塚古墳(p11参照)と同じ時期のものです。この頃、朝鮮半島から鉄鋌(てつてい)(鉄の延べ板)が大量に輸入されています。これらの鉄は農具として加工され、繰り返される河川の洪水と気候の寒冷化によってつくりだされた平野の開拓に使われました。飛躍的に水田面積を広げ、増産された米が大山古墳(仁徳天皇陵)のような巨大な古墳を造る財源となったといわれています。面白いことに、新羅(しらぎ)の鉄を積んだ船が沈んだことから「鉄船(かなふね)の森」とよばれる伝承地が藤江別所遺跡【マップ中・西35】に隣接しています。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』には神亀(じんき)3年(726)に聖武(しょうむ)天皇が名寸隅(なきすみ)の船瀬(ふなせ)に上陸し、播磨の印南野の邑美頓宮(おおみのかりみや)に行幸したことがみえます。このとき、聖武天皇は賀古郡と明石郡の70歳以上の高齢者に米1斗を与えています。邑美頓宮は賀古郡と明石郡の境界の近くにあった、両郡を区画する瀬戸川の周辺に存在した、この連想を繋げていくと、瀬戸川河口が名寸隅の船瀬であった可能性が膨らんでいきます。
■瀬戸川河口
瀬戸川の左岸に位置する金輪寺【マップ西10】、右岸の薬師院【マップ西16】は、寺伝によると行基が大輪田の泊を築いた天平2年(730)と同じ年に、行基によって建立されたといいます。明石海峡の海上交通を考えたとき、1日に4回、3〜5ノットの速い潮流が満潮(まんちょう)時には西へ、干潮(かんちょう)時には東へ流れます。潮流に逆らって航行できないので、転流を待つ港が海峡の東と西に、大輪田の泊と魚住の泊【マップ中・大37】が必要となります。赤根川下流にも、行基が建立したという寺院が点在しています。延命寺【マップ中・大28】は天平12年(740)、長楽寺【マップ中・大31】は天平16年(744)、定善寺【マップ中・大32】は天平年間(729〜48)の建立となっています。これらの寺院が建立された740年代は、行基が東大寺の大仏を造立するために奔走した時期です。周防(すおう)国(山口県)から熟銅(精錬銅(せいれんどう))を安全に運ぶため、摂播五泊(せっぱんごはく)の一つである魚住泊が設置されたと考えられます。赤根川河口の発掘調査で石積み遺構が確認され、周辺に行基開基とする寺院が存在することから、魚住泊は、江井ヶ島港の周辺に位置していたといえます。73万9,560斤(約499t)もの熟銅を運ぶ船が行き来したことから、地元に行基にまつわる伝承が数多く残されているのでしょう。硯町遺跡【マップ中・西7】では、奈良時代から平安時代にかけての大量の飯蛸壺(いいだこつぼ)や円面硯(えんめんけん)が出土しています。飯蛸壺は赤根川遺跡(p9参照)からの搬入が、円面硯は北1kmにある明石郡衙に想定されている吉田南遺跡(p9参照)と密接に関係する役所の存在を示すことから、この遺跡が倉庫群を備える郡衙の外港であったと考えられます。『続日本後紀(しょくにほんこうき)』には承和(じょうわ)12年(845)に明石浜に船・渡子を置き往還に備えるとあります。残念なことに、この港がどこにあったのか確定できませんが、明石川河口の東西に形成された砂嘴が利用されたといえます。
■江井ヶ島港