■有田川流域材を筏で輸送する風景 和歌浦湾入口
■「ショウニンサンノハト」推定位置図
文安2年(1445)1月から翌年1月までの入船と関銭(せきせん)の賦課(ふか)を記録した『兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)』には、林、船上(ふなげ)、松江、営嶋・栄嶋、二見に所属する船が米・塩などを運んでいたと記されて、明石にあった港がわかります。このほか、中庄(なかしょう)は赤穂市中広、伊保角(いほずみ)は高砂市伊保に比定されていますが、明石とする案もあります。明石では、松江船籍の船が51隻と一番多く記載されているのですが、港の所在はわかっていません。船上については、高山右近が秀吉の命を受けて入り、天正14年(1586)頃には船上城と城下町を完成させたことや船上村に秀吉の舟大将・石井与次兵衛がいたことから、この時期には重要な港であったことがわかります。近世になって、明石に入封した小笠原忠政は新城の候補地として、浜に小さな入り江のある塩屋、明石人丸山、そして、かにか坂という高い丘をあげています。3カ所とも、明石海峡の海上交通をおさえるのに重要な地点です。かにか坂については、南に位置する船上村の港湾機能も考慮していたのでしょう。