中世の港

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 建久7年(1196)、重源(ちょうげん)上人は平重衡(しげひら)の南都焼討ちで焼失した東大寺を再建するために魚住泊を修復しています。江井ヶ島港の東部に「ショウニンサンノハト」と呼ばれる突堤があります。地元では行基が築いたと言われていますが、行基を尊称した号は菩薩、重源には上人が使われますので後者が築いたのでしょう。昭和61年(1986)に赤根川河口の浚渫(しゅんちょう)工事で、左岸側から井桁(いげた)状の木組みの上に川原石を置いた石椋(いしぐら)が見つかりました。沖へ10mまでは確実に突出しています。これが、「ショウニンサンノハト」でしょう。重源は建築用の材木を周防国から筏に組んで、手漕ぎの船で曳いて運んだと考えます。摂播五泊の中で檉生泊(むろうのとまり)(たつの市御津町室津)、韓泊(からのとまり)(姫路市的形町)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、河尻(かわじり)(尼崎市・神崎川河口)はそれぞれ湾・入り江・岬・三角州が発達していますが、魚住泊だけは自然地形に恵まれていません。そこで、海に突き出すように波止を築いて、船・筏を停泊させる必要がありました。

■有田川流域材を筏で輸送する風景 和歌浦湾入口


■「ショウニンサンノハト」推定位置図

 文安2年(1445)1月から翌年1月までの入船と関銭(せきせん)の賦課(ふか)を記録した『兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)』には、林、船上(ふなげ)、松江、営嶋・栄嶋、二見に所属する船が米・塩などを運んでいたと記されて、明石にあった港がわかります。このほか、中庄(なかしょう)は赤穂市中広、伊保角(いほずみ)は高砂市伊保に比定されていますが、明石とする案もあります。明石では、松江船籍の船が51隻と一番多く記載されているのですが、港の所在はわかっていません。船上については、高山右近が秀吉の命を受けて入り、天正14年(1586)頃には船上城と城下町を完成させたことや船上村に秀吉の舟大将・石井与次兵衛がいたことから、この時期には重要な港であったことがわかります。近世になって、明石に入封した小笠原忠政は新城の候補地として、浜に小さな入り江のある塩屋、明石人丸山、そして、かにか坂という高い丘をあげています。3カ所とも、明石海峡の海上交通をおさえるのに重要な地点です。かにか坂については、南に位置する船上村の港湾機能も考慮していたのでしょう。