■明石港
元和7年(1621)に小笠原忠政は明石浜を浚渫し明石港を造りました。このとき、船上村から船をこの港に移動させています。毎年、3月3日の大潮の日には、侍・足軽・中間が鋤簾(じょれん)で、町中からも家ごとに1人、人夫を出して砂を引揚げ西の浜に運んで捨てました。城主も港に出かけて工事を監督しました。そして、西国からの船を監視するために、明石・船木(船上か)・藤江・大倉谷・塩屋の5カ所に番所を設置しました。寛永年間(1624〜44)には、港の入口にあたる波門崎(はとざき)に石壁を築いて港を改修しました。しかし、水位が浅く、大船は入港できませんでした。現在の明石港には、明暦3年(1657)頃に5代藩主松平忠国(ただくに)によって造られたという波門崎燈籠堂(はとざきとうろうどう)(明石港旧灯台)が残されています。【マップ東27】
■旧波門崎燈籠堂
二見の近郊は綿の産地で、肥料の干鰯(ほしか)を運ぶため、安政2年(1858)に二見港の工事を開始しました。提唱者は、干鰯屋の増本忠兵衛でした。近郷の石工が集められ、地元漁民も手弁当で参加し、無料奉仕で工事にあたりました。突堤は、古代から行われた松の丸太を井桁に組んで、中にくり石を詰めて、その上に大石を投じて造られました。工事は潮の引く干潮時を利用したので、極寒の冬の夜間でも強行されました。安政4年(1857)の秋には、一応工事は竣工しましたが、その冬の西風で壊れた築堤を修復するなど難工事の末、安政5年(1858)に工事を完成させました。東堤防には港の安全を祈る「ほうけん塔」が、明治30年(1897)には功績を伝えるために二見浦築港記念碑が建てられました。明石港は明石藩が整備した港ですが、二見港は二見の人々の力によって築かれた港です。
■二見港(東播磨港)