近世の港

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 近世の港について、ほぼ定期的に瀬戸内海の近距離を人や商品を運送した小渡海船(ことかいせん)の一覧が『明石市史』にあげられています。明石町72艘・大蔵谷村2艘・林村84艘・藤江村41艘・谷八木村6艘・東島村14艘・西島村9艘・東二見村15艘・西二見村1艘となっていて、船を使って肥料(生イワシ・尿)などの購入、藁(わら)・筵(むしろ)・縄・焙烙(ほうろく)などの販売を行っていたことがわかります。舟船が停泊した港は、それぞれの村を流れる河川の河口を利用していたことが考えられます。

■明石港

 元和7年(1621)に小笠原忠政は明石浜を浚渫し明石港を造りました。このとき、船上村から船をこの港に移動させています。毎年、3月3日の大潮の日には、侍・足軽・中間が鋤簾(じょれん)で、町中からも家ごとに1人、人夫を出して砂を引揚げ西の浜に運んで捨てました。城主も港に出かけて工事を監督しました。そして、西国からの船を監視するために、明石・船木(船上か)・藤江・大倉谷・塩屋の5カ所に番所を設置しました。寛永年間(1624〜44)には、港の入口にあたる波門崎(はとざき)に石壁を築いて港を改修しました。しかし、水位が浅く、大船は入港できませんでした。現在の明石港には、明暦3年(1657)頃に5代藩主松平忠国(ただくに)によって造られたという波門崎燈籠堂(はとざきとうろうどう)(明石港旧灯台)が残されています。【マップ東27】

■旧波門崎燈籠堂

 二見の近郊は綿の産地で、肥料の干鰯(ほしか)を運ぶため、安政2年(1858)に二見港の工事を開始しました。提唱者は、干鰯屋の増本忠兵衛でした。近郷の石工が集められ、地元漁民も手弁当で参加し、無料奉仕で工事にあたりました。突堤は、古代から行われた松の丸太を井桁に組んで、中にくり石を詰めて、その上に大石を投じて造られました。工事は潮の引く干潮時を利用したので、極寒の冬の夜間でも強行されました。安政4年(1857)の秋には、一応工事は竣工しましたが、その冬の西風で壊れた築堤を修復するなど難工事の末、安政5年(1858)に工事を完成させました。東堤防には港の安全を祈る「ほうけん塔」が、明治30年(1897)には功績を伝えるために二見浦築港記念碑が建てられました。明石港は明石藩が整備した港ですが、二見港は二見の人々の力によって築かれた港です。

■二見港(東播磨港)