■林崎掘割渠記碑(明南町)
記念碑は元文4年(1739)に掘割工事の顛末(てんまつ)を後世に伝えるとともに、掘割の水利で争いが生じないことを願って建てられました。現在ではこの水を貯える野々池は明石市の貯水池となり、市民においしい水を供給しています。
松平信之の時代には、明石川の支流伊川から約8㎞の伊川谷掘割が寛文11年(1671)に開削されました。その後、大久保掘割や庄内掘割などの用水路や宝恵(ほうえい)池、寛政池、安政池など多くのため池が造られ、現在、明石市内には、これらの記念碑や伝説も数多く残っています。
■庄内掘割(魚住町山川)
その中でも寛政池は江戸時代の大規模な灌漑用水の工事として知られています。池は秋田村(神戸市西区岩岡町)にありますが、その用水は江井島の西島村、中尾村、森村の3カ村に送られています。寛政12年(1800)、明石藩郡代所の命により、大庄屋田中源左衛門が中心となり工事をしました。
明治26年(1893)、旱魃(かんばつ)で他村では水不足に苦しみましたが、この3カ村は寛政池によって水不足にはならなかったため、この恩恵に感謝して翌年に、有志が記念碑を建てました。【マップ中・大27】
■寛政池紀功碑(大久保町西島)
時代が下り、明治から大正になると土木技術がさらに進歩し、江戸時代に開発できなかった岩岡町や稲美町、大久保町などの一段高い台地に淡河(おうご)川・山田川疏水が引かれ、同時に多くのため池も造られました。魚住町にある17号池は、その支線(岩岡支線)の末端にあるため池として重要な役割を果たしてきました。そして長坂寺の宗賢(そうけん)神社の境内に、淡山疏水(たんざんそすい)記念碑が建てられています。なお、淡山疏水は平成18年(2006)「疏水百選」(農林水産省)に選定されています。
■淡山疏水記念碑