神戸市西区岩岡町にある「野中の清水」もその一つで、魚住町清水の地名の由来とも言われています。古代から西行(さいぎょう)・藤原俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)などの文人たちが『古今集(こきんしゅう)』などに和歌に詠み、中世には播磨国の守護赤松の定める播磨十水の一つにもなっています。江戸時代の元禄3年(1690)明石藩主が清水をさらえ、汚濁(おだく)禁止の制札(せいさつ)を立て、この水を酒造りに用いたという記録もあります。
■再現された野中の清水
■亀の水
明石市内では、柿本神社の西の登り口にある「亀の水」が有名です。手水鉢(ちょうずばち)は、流れる水を甕(かめ)で受けていたのが始まりのようで、常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の飯塚宣政(いいづかのぶまさ)により寄進されました。今でも時間帯によってはひっきりなしに、遠くから、また近くの人が水を汲みにポリタンクを持ってやってきます。平成7年(1995)の兵庫県南部地震の際も水は止まることなく湧き出ていました。近くの明石城内にあるお茶の水遺跡は、8代藩主松平直明(なおあきら)が日常的にこの水でお茶を点てていた跡です。魚住町金ヶ崎にある黒岩神社の「禊(みそぎ)の滝」 【マップ中・大24】 は背後の金ケ崎山から湧き出す水として知られています。
■お茶の水遺跡
東二見にある「弘法大師(こうぼうだいし)の霊水(れいすい)」 【マップ西28】 は、弘法大師が旅の途中、この地にあった寺に立ち寄り、地元の人たちのお世話になりました。そのお礼として大師が錫杖(しゃくじょう)で地を突くと清水が湧いたと伝えられています。この付近は海に近いため井戸に海水が混じり、良い水が得にくい土地にもかかわらず、清水が湧くことから生まれた話と思われます。日照りがあっても枯れたことがなく、大雨でも増水したこともなく、病気にも効くといわれている名水です。
■弘法大師の霊水
一方、井戸としては林神社の近くに「立石(たていし)の井」があり、次のような大蛸伝説があります。「昔この辺りに大蛸が出没して岸崎(きさき)に住む西窓后、東窓后という二人の妃をねらっていました。二見の武士、浮須三郎左衛門が山伏に化けた大蛸をたたき切ったところ、その大蛸は大きな石になってしまいました。」その後いつのころからか、この石の下からきれいな清水が湧き出てくるようになり「立石の井戸」といわれました。また、鳥羽の慈泉寺の井 【マップ中・西24】 には享保年間(1716〜1735)に飲み水に難儀する村人を見かねて井戸を掘ると清水が湧き出し、そこからこの寺の名前が付けられたといい伝えられています。
■立石の井
弘法大師ゆかりの八木の「庵の井戸」 【マップ中・大17-1】 は、来迎寺(らいごうじ)の庵があったため「アン(庵)の井戸」と呼ばれ、村人の生活用水でした。旱魃の時も枯れることなく、きれいな水が出て酒造にも使われ、できた酒は一番に井戸に供えました。この付近は水位が高く、井戸の囲いに穴が開いていて水が溢れるようになっています。また、近くには「コエ(コンともいう)の井戸」 【マップ中・大17-2】 もあり、掘ったのは行基とも弘法大師ともいわれています。江井島長楽寺境内にある「行基の井戸」、「柳井(やない)のわき穴」などがあります。更には、各村々には生活用水として多くの井戸があり、上水道が普及するまで使用されており、長坂寺の「二ツ井」は今でも井戸の枠組みが住宅の敷地内に移され保存されています。
谷八木から二見にかけての海岸線沿いに、「どっこんしょ」または「どっこいしょ」と呼ばれる湧き水が多く存在していたことが知られています。当時の子ども達の遊びに疲れたときの休憩所で、渇いたのどを潤したり体を洗ったりしたそうです。明石の西部の地形を形成する海岸段丘の崖の下部の付近は地下水脈が浅く地表に露出して湧き水となっていると考えられています。現在では大きな工場ができて地下水をくみ上げ、湧き水は次第に枯れて行ってしまったといわれています。