各藩では領地の年貢(ねんぐ)収入の増大のために、農民は耕地拡大のために意欲を持って新田開発に取り組みました。いなみ野台地では、1650年代以降、新井用水、林崎掘割、寺田用水、伊川谷掘割などが完成し、同時にため池も造られ水田化が進んでいきました。明石藩でも数多くのため池が造られていきます。
江井島に水利権がある寛政池(神戸市西区岩岡町秋田)もその一つです。江井島付近は当時、河川からの用水路(林崎掘割や庄内掘割)の末端にあたり、毎年水不足となり日照りが続くと旱魃(かんばつ)となりました。そこで村人は相談し、瀬戸川上流の谷を堰き止め堤を築き、新しい池が寛政12年(1800)にできあがりました。その後、明治26年(1893)夏、大できあがりました。その後、明治26年(1893)夏、大旱魃(かんばつ)がやってきましたが、寛政池の樋を抜き、地元の池まで水を引き水不足になりませんでした。翌年4月、先人の功績(こうせき)をたたえ記念碑を建てました。【マップ中・大27】そして昭和30年代まで先人の苦労に感謝して「寛政池祭」が行われていました。
■寛政池
■寛政池紀功碑(大久保町西島)