明石市近郊の地図を見ますと、13号池、14号池、17号池など番号のついたため池があるのに気づきます。これらは、明治末期から大正初期にかけて造られたもので、淡河川(おうごがわ)・山田川疏水事業に関係しています。この事業は明和年間(1764〜1771)から何度も計画や実地測量されながら実現せず、明治に入り、まず淡河川疏水から着手され、明治21年(1890)着工、同24年完成。続いて山田川疏水が、明治44年(1911)着工、大正4年(1915)に完成しました。その支線とため池の数は、別所支線(13)岩岡支線(32)森安支線(5)広野支線(4)となっています。岩岡支線の末端にあたる明石郡魚住村(現明石市魚住町)には、15、16、17号池など新しいため池が造られました。地元古老の話によれば、大正7、8年(1918、19)ころには畑は水田となりましたが、まだ三分植えくらいでした。昭和に入ってようやく八分植えまでになりましたが、お盆のころには、また水不足になったそうです。
■17号池
以上、明石市を中心にいなみ野台地のため池を見てきましたが、この台地の開発の歴史は、まさに“水”との闘いの歴史であり、農家の人々にとっては、“命の水”を求めた歴史でもあったのです。