総論

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 明石市は、東西が15.6km、南北が9.4kmの瀬戸内海に面した細長い都市である。明石市の地形・地質(図1)を南から北にみると、平野を形成する2万年以降に堆積した沖積層、その下部を構成する100~200万年前の明石累層、次に12万年前後につくられた中位段丘面を形成する西八木層、魚住町金ヶ崎で一部顔を見せる100万年以降の六甲造山に伴う有馬層群、そして高位段丘面を形成する30万年前後の明美累層からなっている。市域のほとんどは、明石川から加古川に広がる標高が20mを超える、いなみ野台地とよばれる中位段丘面(西八木面)で、わずかに明石川・藤江川・谷八木川・赤根川・瀬戸川の下流域で平野がみられるにすぎない。平坦な地形と一年を通じて日照時間が長く、気温の年較差も少ない温暖な瀬戸内式気候とあいまって降水量も少ない。米づくりには用水の確保が不可欠であることから、いなみ野台地には多数の溜池が散在する。
 明石周辺での農業、特に稲作については、弥生時代でも古い段階に明石川中流域にある吉田遺跡(神戸市西区)で開始する。その技術は上流に広がる平野、さらには明石川の支流である伊川・枦谷川が形成した平野へと伝播し水田面積を広げていった。しかし、明石川の下流域に位置する明石市域では、くり返す河川の氾濫によって近代までは安定した稲作は望めなかった。畢竟、明石の農業については、市域のほとんどを占めるいなみの台地が注目され、この台地を如何に活用して水田耕作を営むかが課題であった。
 鳥羽地区・松陰新田地区・清水新田地区は、いなみ野台地の開発が始まる近世初期、それも最も早い段階に形成された村落である。これらの村は、村そのものの移動、あるいは周辺から集まってきた農民によって村づくりを開始する。その背景には、明石藩の新田開発を行って耕地を確保し、地代率を引き上げることなく年貢収入を増大させるという政策があった。
 それぞれの村は、田に水を供給する水利を主軸にすえ、講・秋まつりなどで絆を深めつつ村落共同体を形成していった。これらの村々の足跡は、ため池・掘割・社寺・伝承などから、たどることができる。

図1 明石市の地形・地質『明石のため池』