鳥羽新田村は万治(まんじ)3年(1660)、明石藩主 松平信之の時代に当村から有力者12人が北方約8丁(800m)の未開地であった羽岡と呼ばれていた地に移住開墾し、17町2反8畝11歩(約17ha)を開墾した。円通寺(えんつうじ)境内の報徳碑にこの地を鳥羽新田と称すると記されている。
この開拓が始まる2年前の万治元年(1658)に林崎堀割が完成している。この水路の完成により、本村が発展への道筋が立ち、村に少なからずの余裕が出来たことにより、藩の新田拡大への奨励策にあわせたのであろう。また、11年後の寛文(かんぶん)11年(1671)に鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門は、林崎掘割から枝溝を引き入れ、田を潤したと言われている。