林崎掘割(はやしざきほりわり)

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 古代から、林崎地方は、台地でしかも砂礫層のために溜池があっても、米作りの水に乏しく、絶えず干ばつに悩まされていた。
 このため、明暦(めいれき)3年(1657)和坂村の野々上組代官 伊藤次郎左衛門と和坂村 甲谷五郎兵衛、伊藤伝兵衛、鳥羽村 岸本善太夫、林村 伊藤六兵衛、隅谷七兵衛、石井六郎右衛門、小網喜兵衛、東松江村 実安伝右衛、西松江村 岩井三郎兵衛、藤江村 神足多兵衛、伊藤治郎右衛門、6カ村 11名の庄屋の熱意により、明石藩主 松平忠国から掘割の施工許可を受け、わずか1年余りで、完成させたと記されている。

林崎掘割渠記碑(『林崎村郷土誌』大正8年刊)

 この年の収穫は、水量が豊富であったため、大豊作で村人は大喜びしたと伝えられている。以後、藩主忠国は掘割の完成を喜び、水路の維持管理のため、毎年1,000人の人夫扶持(ぶち)(米で与えた給料)を与えたといわれている。当時、「鳥羽の善太夫、和坂の五郎兵衛、印路、丸山、掘りぬいた。」という歌が作られ、今に残されている。測量師の山崎宗左衛門(現 神戸市西区伊川谷出身)は、毎夜12時から翌朝4時まで提灯を持った人を並べ、その光の具合で土地の高低を調査し、明石川から野々池への通水可能なことを確認したという。
   工期 明暦3年冬(1657)~万治(まんじ)元年4月(1658)
   延長 5,374.6m (現 神戸市西区平野町黒田~野々池)
   掘幅 1.5m
 また、鳥羽新田については、寛文(かんぶん)11年(1671)に鳥羽新田村の庄屋 岩佐三右衛門が、明石藩主 松平信之の許可を得て、この掘割から枝溝を村まで引き入れている。

林崎掘割

 
〈掘割渠記碑の建立と掘割祭〉
 和坂村 伊藤治兵衛、鳥羽村 岸本清右衛門、鳥羽新田村 岩佐三右衛門ら庄屋10名は、水路掘削工事の事を後世に伝えるとともに、また、掘割の水争いが生じないことを願い、元文(げんぶん)4年(1739)12月鳥羽六郷(ろくごう)(野々池西北端)に記念碑を建てた。
 石碑は、大きさは、97㎝×236㎝で台石からの高さは、296㎝である。
 撰文は明石藩の儒学者 梁田蛻厳(やなだぜいがん)に、書は田原何龍(たはらかりょう)に依頼している。昭和47年(1972)には、明石市指定文化財になっている。掘割祭は、毎年4月18日、この場所で地元住民など関係者の他、地元小学校5校(鳥羽、和坂、沢池、林、藤江)の持回り参加によって、開かれている。

掘割祭