慈泉寺閑栖和尚は、「古鳥羽における寺院焼失後、村民は近在に四散し、この内いくらかは新天地となる現在地に移り住み、これらの人々や林村などからの移住者によって、徐々に集落の形成が進んでいった。やがて、村民の生活の安定化に伴い信仰のよりどころとして、新寺院の建立を願うようになり、その時の経済力を背景にしながら少しずつ、伽藍(がらん)などの寺院施設の整備を進めていったと思う。」また、「現在の本堂を改修した時に、本堂の棟に一括して納められたと推測される上棟文板木(じょうとうぶんばんぎ)が発見された。その中の板木に次のような文言がある。“寛文(かんぶん)元年(1661)、願主 浅井清兵衛、匠工山崎宗左衛門によって、地蔵菩薩を本尊仏とする小宇(しょうう)(小さなお堂)が造営された、”と墨書されている。慈泉寺の一番古い堂宇が現書院である。」という。更には、「この仏堂は当時、本堂・庫裏(くり)・書院(しょいん)の多機能を備えるものと想像され、茅葺(かやぶき)屋根であった。この上棟文に祝言が記載されており、そこには瑞雲幻住天洲記とある。この時期には、まだ住職がなく中本山の龍谷寺(現明石市材木町)の和尚が采配し、正式な山号、寺号を持つ寺院でなかったと考えられる。これら以外に、草創期の寺院の由緒、沿革など文書化されたものがなく、あくまでも伝承の域を出ないものであるが、現在地に寺院が形態を整え始めるのは、寛文年中(1661~1672)であると推察する。『当山中興西嶽和尚行業記』によると、50年後の享保6年(1721)に西嶽和尚(二代目)が中興した。とあり、この時を起点として名実共に独立寺院になったと思う。」と語られている。
慈泉寺の本尊は、木造の子安地蔵菩薩立像(こやすじぞうぼさつりゅうぞう)であるが、作者、年代は共に不詳である。本尊子安地蔵を信仰する者には、土地豊穣、家宅永安、求所逐意、寿命長遠等その利益甚大であるといわれている。特に、妊婦の安産、子女の健全な成長を祈願すれば、その霊験は無類である。この因縁に基づいて、境内(山門の東)の背の高い那智黒の歌碑に、泰巖聰明(たいがんそうめい)和尚(現 閑栖和尚)は、讃歌として、次のように詠まれている。
沸き出ずる 慈悲の泉は地蔵尊 海獄山より花ぞ開かん
慈泉寺 昭和19年頃
所在地 野々上1丁目
本尊 子安地蔵尊 本尊が子安地蔵尊であることから、昔は、妊婦が多くお参りしたと記されている。
境内堂宇 観音堂(本尊 観世音菩薩) 鎮守堂(本尊 金比羅権現
〈慈泉寺名のいわれ〉
当時、村に井戸がなく、野々池から引いてくる灌漑(かんがい)用水にたよっていた。そのため日照りや長雨が続く年は多くの病人が出た。当時の住職、西嶽和尚(当寺の中興の祖)は、村人を救うため、享保9年(1724)深さ9m余りの新しい井戸を掘った。
その時、冷たくておいしい泉が湧き出た。以来、村人は、この井戸を慈泉と呼ぶようになった。慈泉寺の名は、常に質の良い水が十分に得られるようになった村人の喜びを表現したものであるといわれている。
宝篋印塔