鳥羽新田村の離檀

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 万治(まんじ)3年(1660)鳥羽新田村の誕生以来、しばしば利水をめぐり本村である鳥羽村との間で意見の対立が起こった。この事が引き金となり、明治初期(柯山和尚)頃より鳥羽新田村は、慈泉寺に対し分離・独立を促す要求を幾度となく繰り返し行なってきた。昭和31年12月、鳥羽村はやむを得ずこれを受け入れ、離檀することを承諾した。その後、昭和40年、新寺院「圓通(えんつう)寺」が創建された。