松陰新田村の藤田平左衛門が明治10年に妙見堂を再建し、同年に講頭となり妙見講を設立した。以来、長きにわたり活動が行われていたと考えられるが、詳細は不明である。
昭和54年の現住職就任以降、毎年4月の妙見祭、7月の土用丑の妙見夏祭りが行われている。なお、妙見堂の伝統行事であった寒の時期の唱題行脚(団扇太鼓を叩いて行脚)については、昭和63年頃まで行われていたが、現在では、これに代わって水行と堂内における読誦行が行われている。
〈妙見講お講団体〉
鳥羽村講中、松陰新田村講中、印路村講中、水谷村講中、福住村講中、明石町最上講、山田村妙見講、兵神信明講、 以上8団体
寺院敷地は、永年にわたる池水の浸食により現在では決して広くはないが、創建当時の敷地は広大で、しかも周辺の池や沼地には多くの鳥が生息し、明石城主 松平家の狩猟地であり、妙見堂はその休憩所としても使用されていたという。
また、妙見堂は、源平の戦没者を供養する塚跡に創立されたといわれ、寺院の建物を建設する際、土中から、刀剣類が発見されたとも伝えられている。しかし、証拠となる出土品や書物は一切見つかっていない。