報徳碑

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 観音堂に第六代明石城主松平信之の位牌があったが、現在は本堂に移され大きな厨子の中に納められている。松平信之は、万治(まんじ)2年(1659)~延宝7年(1679)の間、明石藩を治め新田開発に力を注いだ。鳥羽新田の庄屋・岩佐三右衛門は、松平信之の許可を得て、寛文11年(1671)に掘割を鳥羽新田まで引き入れている。鳥羽新田の開拓時に援助してくれた、かつての明石藩主・松平信之が下総・古河(こが)(茨城県古河市)で、貞享3年(1686)7月22日に亡くなった。報徳碑は、その遺徳をしのんで死後50年後の享保20年(1735)に建てられた。現在の報徳碑は平成12年に建て変えられたもので、以前の碑はこの下に埋められている。

報徳碑