明石市大久保町の北に広がる水田地帯が、市内で最も農業が営まれている松陰新田である。いまから360年ほど前に明石藩において早い時期に開発された新田でもある。明石市教育委員会発行の明石市史資料第一集『播磨国明石郡松陰新田村検地帳並に田畑名寄帳』に松陰新田のことが詳しく記されている。これによると、丹波篠山五万石の藩主松平忠国は、慶安二年(1649)8月に明石七万石の藩主となり、すぐに松陰新田十三町七反九畝四歩(約十四㌶)を開き、二十一人を入植させたとある。村のはじまりである。
そのころ、西国街道に近いという地の利に恵まれていながら、水がなく、土地も肥沃でなかったこともあり、忠国は九つの池を同時に造ったという。新田が完成したのは明暦元年(1655)で、最初の庄屋は九郎兵衛であった。
現在の松陰新田の風景
松陰新田村地図(明治8年ころ)