松平忠国と林崎掘割

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 松陰新田を開発した松平忠国は、林崎地方の旱ばつに悩まされている6ヶ村からの庄屋たちの掘割の施工願いを許可し、明石川上流から野々池までの約5.4㌔㍍の林崎掘割が完成した(詳しくは鳥羽地区の項)。万冶元年(1658)4月のことである。その後、忠国は、水路の維持管理のため、毎年1,000人の人夫持を与えたという。

掘割人足証文(明石掘割土地改良区)


林崎掘割水路図(明石掘割土地改良区)

 その後、鳥羽新田の庄屋岩佐三右衛門は、藩主松平信之(忠国の息子)の許可を得て、寛文11年(1671)に掘割を鳥羽新田まで引き入れている。また、新溝の取り入れ口が、宝永4年(1707)4月に設けられ、翌年10月に完成している。この新溝が、大久保掘割といわれている。松陰新田には今では使われなくなっている掘割(水路)が残っている。

掘割祭(毎年4月18日)

 
林崎掘割

 この林崎掘割の話は、市内小学校社会科副読本にも掲載され、現地見学や地元古老に直接お話を聞くなど体験学習も多く取り入れられ、水に苦労した先人の知恵 と努力が未来の子どもたちに受け継がれている。

『わたしたちの明石』(明石市教育委員会)
小学校3・4年生社会科副読本
平成26年度版