「村の成り立ち」(社寺との関係)

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 清水新田は、もとは三木合戦で敗れた落武者や足軽が村を開墾したと伝えられてきた。このこと以外に、清水新田村についての文書類は残されていない。本村にあたるとされてきた清水村については、歴史・民俗・伝承が多く記録されているのに反し、清水新田村に関しては、ほとんど資料が伝えられていないため、古い地誌や伝承などを紹介しながら、村の成り立ちを考えていきたい。

聞き取り調査の様子

 清水新田村の成立について、まずは三木合戦との関連から考えてみる。南に位置する福里村(加古郡)には、地元で源太塚とよぶ墓地があり、そこには三木合戦で戦死した梶原源太景行(梶原源太景季の子孫)と家臣が埋葬されているといわれてきた。三木合戦との関係は不明だが、墓地からは宋銭・永楽銭など近世初頭の遺物が出土している。清水新田村では、残念ながら現在までに三木合戦に関連する遺跡や遺物資料等は見つかっていない。ただし、落武者の村であることへの反論はなく、生活用水の確保できる場所であったことは考えられ、新田を開発するのに適した土地を選んだのであろう。清水新田地区の位置は東の魚住町金ヶ崎・長坂寺、神戸市西区岩岡町には標高80m前後の高位段丘が広がっていて、この段丘からの水を集めて瀬戸川・清水川が段丘の裾にそって流れている。地形的には、南北方向は南へ海に向って緩やかに傾斜し、東西方向は東が高くて加古川に向って西へ緩やかに傾斜している。このような地形から、高位段丘の南西裾部に位置する清水新田地区は、水を比較的確保しやすい地であるといえそうである。
 また、新田開発するときの最も重要な問題は、先に記したように米づくりに必要な水をいかに確保するかにかかっている。水源を確保し、そこから用水路で水を引いて池に貯え、張り巡らされた溝の水位に合わせて周辺に水田を開墾できる。順調に水田化が進んだとしても、米の収穫には最低1年間はかかる。そして、収穫が安定するのに2~3年は必要で、この期間を援助した村が存在するはずである。その村を捜す手がかりとなるのが、江戸時代初期の宗門人別改帳につながる寺請制度・檀家制度で、清水新田村は、隣村の清水村にある西福寺の檀家で、清水村の農民が開拓を援助した可能性は考えることができる。
 清水新田村の始まりは、宝永8年(1711)頃に記された『采邑私記』には清水新田村「前城主藤原季任之時輿」とあり、大久保季任(後に、忠職)が明石藩主を務めたのが1639~1649年だから、この頃に村が成立したと考えられる。
 また、清水字明神下にある宗賢神社の元は王子権現(『明石記』)で、寛文12年(1672)の創立といわれている。「顕宗仁賢天皇神社の分布とその背景」(田中久夫)には、清水字明神下の宗賢神社に棟札が残されており、村がつくられて20年後に神社が創建されたということは、水田経営が軌道に乗って安定期をむかえたと考えることができる。宗賢神社は王子村を基点にして、明石川水系に沿って北へ、西国街道に沿って西へと明石領内を分布圏とし明石郡特有の神社信仰である。この清水新田村の宗賢神社について、『采邑私記』に清水村の王子神社・西福寺がみえるが、清水新田村には記載がない。清水村の清水神社は、清水村から北東へ約1kmの寺山から現在地へ、明暦2年(1656)に王子村の王子権現を勧請して移ってきたといわれている。

宗賢神社

 清水新田村の米の取れ高は、『正保郷帳』(正保3年、1646)では147石8斗5升4合(水田方129石4斗2升4合、畠方18石4斗3升)と記されてある。元禄10年(1697)頃に書かれた『采邑私記』、宝永8年(1711)の高辻帳(『明石市史資料近世編』)では、石高、147石8斗5升4合で、『采邑私記』では近隣の松陰新田村171石9斗4升7合とある。『元禄播磨国絵図』には、清水新田村147石余で、松陰新田村181石余と記されている。次に『天保播磨国絵図』をみると、清水新田村209石余、松陰新田村190石余と、約100年後には逆転して清水新田村のほうが松陰新田村よりも20石ほど多くなっている。『天保郷帳』(天保5年、1834)では清水新田村209石2斗9升7合と、生産高は増えて行っている。