東隣の清水地区を調査してから30年近くなり、今回の調査で民俗行事が大きく変化していることに驚いた。初めにも記した通り清水地区には文書記録などが多く残っているが、清水新田地区には文書類、絵図が残されておらず(調査不足の可能性も十分ある)、推論の域を出ないが、「三木合戦の落ち武者・足軽が先祖」と言う言い伝えを、無視するのではなく、「他地域から、それも、北の地域から開墾に来た」と考えて、村の成り立ちの時期は戦国末期から江戸初期と考え、今後、調査を深めていく必要がある。また、与次右衛門についても、西福寺の過去帳など文書資料などに散見できないか調べる必要がある。ただ、清水地区の「貞和2年(1346)」の銘のある五輪供養塔の存在から、清水地区が室町時代までさかのぼることができることも考えて、二つの地区の関係を調べていきたい。
いずれにしても、今回、与次右衛門が作ったとされる「高築水路」が明らかになったことで、用水路とため池の関係をさらに詳しく調べる必要性を痛感した。
*なお、水利組合の男性への聞き書きは地区の公民館をお借りして行い、大師講の女性の聞き書きは大師堂で行った。また、高築水路には6人の地区の男性たちが同行して頂いた。数回にわたる無理な聞き書きにもかかわらず、お付き合い頂き、お礼を申し上げたい。