1.始まりと伝承

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 縄文時代の遺跡から石の錘や骨製の釣針などが出土しているため、すでに漁が行われていたことがわかる。明石周辺では播磨大中遺跡(播磨町)をはじめ、弥生時代中頃以降の遺跡から、イイダコを捕るために使われたと考えられる「飯蛸壺」が多数出土している。高さ10cm程度のコップ形をした土器で口縁部近くに小穴が一つある。玉津田中遺跡(神戸市西区)では一か所にまとまった状態で出土しており、小穴に縄を通し連結して使用する時の一単位を表していると考えられている。現在では、貝殻(ウチムラサキやニシなど)を利用しているイイダコ漁の原型といえる。

弥生時代の飯蛸壺


貝殻を使ったイイダコ漁具(西二見)

 それでは、“漁”はいつ頃どのように文献に現れるのか。明石地域においては、古く『日本書紀』にその記述がある。允恭(いんぎょう)天皇14年(425)9月12日、阿波国の海人(あま)男狭磯(おさじ)が腰に縄を繋げて、深さ六十尋(ひろ)(約108m)もある明石の海底から大鮑(あわび)を捕り、その腹から桃の実大の真珠を得たことが記されている。

男狭磯の鮑捕り『播州名所巡覧図会』

 網を使って漁をしていた記述は、大阪湾でのことだが『日本書紀』推古(すいこ)天皇27年(619)7月、摂津国の漁夫が堀江に網を沈めたところ、半人半魚のようなものが捕れたとある。
 明石の漁師については、霊亀(れいき)2年(716)漁師藤太夫が手繰(てくり)網によって仏像を引揚げ、寺院(現在の長林寺)に納めたという話と、8世紀頃、刑部定国という明石浦の漁師が網の中に光るものを見つけ、引き揚げると薬師如来像であったので、その像を太山寺(神戸市西区)の本尊として安置したという話が伝わっている。このように古代においても、明石の海では多くの漁師たちが活動していた。