『采邑私記』は、元禄年間(1688~1704)の末頃に、明石藩士太田小左衛門がまとめたもので、明石郡の説明、藩の歴史、領内の町や村々の成り立ち、石高、寺院・神社・名所・名物の由緒などが漢文で記されている。その「土産」の項に、イカナゴは鹿ノ瀬で多く捕れ、農家の肥料にしたり、炒って油を採るとある。
“春夏之交、以巨網捕小魚ヲ、是ヲ曰伊加奈古(いかなこ)ト、多則盈(みつる)舟、至若干艘、林村鹿之瀬為ス最多ト、或農民買之為糞(こやし)、或市人熬(いり)之取油、而賣魚又沽ル其油ヲ”(『西摂大観.郡部』1911)
海中瀬磯之図『明石記』
『明石記』は、享保6年(1721)頃に長野恒臣によって書かれたもので、町や村々の石高、人数、家数をはじめ、寺院・神社の由緒、高札場や一里塚の位置、名所・旧跡、橋の数にいたるまで詳細に記されていて、当時の領内の様子が詳しくわかる。『采邑私記』の記載を引用した部分も多い。また、村方の人数・家数・古記録などは宝永元年(1704)頃に各村から藩へ提出させた「指出帳」(報告書)を元にしている。『明石記』の中から漁業に関連する記載を抜き出したものが「表1」である。
14軒 内10軒ハ波門崎近ニ有 |
50軒 |
56軒 |
竈数89軒 52軒本家 37軒借家 |
人数446人 内238人男 208人女 | 竈数86軒 31軒本家 55軒借家 |
人数372人 内194人男 178人女 |
竈数237軒 58軒本家 179軒借家 |
人数1818人 内599人男 489人女 |
竈数90軒 |
人数628人 内345人男 283人女 |
船数 | 301艘 | 内73艘大坂上下船 25艘網船 201艘漁船 |
2艘山王初穂船 | ||
網数 | 72帖 | 内1帖鯛大網 30帖魦網 9帖平子網 |
16帖手拷網 鰯網 | ||
船数 | 71艘 | 内17艘大坂上下船 54艘漁船 |
網数 | 29帖 | |
船数 | 380艘 | |
漁船 | 216艘 | 4石積ヨリ2石5斗迄 |
猟船 | 12艘 | |
蓄船 | 2艘 | 20石~30石 |
網 | 6帖 | いかなご いわし |
手操網 | 7帖 | 夏中かれい | 網 | 7帖 | いかなご いわし |
漁船 | 20艘 | 持主20人 |
漁船 | 12艘 | |
蓄船 | 5艘 | 20石ヨリ30石積 |
網 | 5帖 | いかなご いわし |
網 | 3帖 | |
漁船 | 5艘 | |
蓄船 | 1艘 | |
網 | 5帖 | いかなご いわし |
漁船 | 10艘 | 5石ヨリ10石積迄 |
船数 | 84艘 | |
漁船 | 238艘 | 但 8石積 持主238人 |
地鰯網名代 | 25帖 | |
魦網名代 | 21帖 | |
地引網名代 | 15帖 | 但平子網之 |
船数 | 41艘 | |
渡海船 | 1艘 | |
漁船 | 21艘 | 7石積 持主21人 |
魦網 | 5帖 | |
手拷網 | 32帖 | 11帖ハ34年以来段々減 今ハ21帖 |
辛螺網 | 32帖 | 11帖ハ34年以来段々減 今ハ21帖 |
鯛網地引 | 1帖 | |
底立網 | 6艘 | 内3艘ハ30年以前段々減 今ハ3艘出ル |
コチ網 | 23帖 | 50年以前迄出ル 今ハ不出 |
鰯網 | 3帖 | 60年以前迄出ル 今ハ不出 |
平子網地引 | 7帖 | 内4帖50年以前ヨリ減 今3帖出ル |
ボラ網 | 3帖 | 56、7年以前ヨリ不出 |
蛸壺 | 當村ニテ作 名物也 | |
船数 | 6艘 | |
漁船 | 3艘 | |
藻曳網 | ||
唐網 | ||
平子網 | ||
船数 | 14艘 | 2艘ハ30石積 12艘ハ27石積 |
漁船 | 32艘 | 5石ヨリ8石積迄 持主32人 |
魦網 | 4帖 | |
地挽網 | 1帖 | |
船 | 9艘 | 1艘ハ50石積 4艘ハ25石積 4艘ハ20石積 |
漁船 | 6艘 | 6石積 持主6人 |
漁船 | 1艘 | 10石積 平子網船也 |
藻曳網 | 西岡村当村 | |
船 | 6艘 | 持主4人 |
2艘ハ35石積 1艘ハ40石積 1艘ハ15石積 | ||
2艘ハ 平子鰯漁船 |
岩屋神社前浜の船 『播州名所巡覧図会』(部分)