・鯛延縄(はえなわ)漁は旧藩時代には使用禁止であった。
・鯛網は旧藩主の専有で大きさ二百尋(約300m)であったが、維新後大蔵谷村卯月宇蔵へ払い下げられた。
・鰡は幕府へ献上するため、網数を明石郡中で二十一畳に限定し、その漁期になれば藩主より葵紋付の小幟を下付される。
・地曳鰯その他の漁具は藩主がその数を制限していたが、これは漁業を保護するためであった。
・藩主は、浦目付役を江井島村の浜手役所に派遣し、時々沖合を見廻り、他領からの入漁を監視していた。その際、古老の漁夫あるいは適任のものを選び沖目付と称して葵紋付小幟を艫に立てた小船を出した。
・旧藩時代には十艘頭という者(3名)がいて漁場を管理し、なお沖目役をおいて時々漁場を見廻っていた。
・魚税は、元和年間(1615〜1624)には運上として年々五分の一、寛政年間は請浦運上として銀六貫目その後一割九歩に改められ、弘化3年(1846)よりは嘆願のうえ減少して蛸壷、飯蛸壷、蛸釣り、イサリ、手繰網、五智網、立網、釣漁は一割六歩、鰯、鰆、魦等の網漁は一割一歩二厘を納め維新後尚その額を納めていたが明治8年(1875)に廃税となった。(林村)
・旧藩時代には浦役として上使その他諸領主等が明石領内の海を通行する時は、船の漕ぎ手を勤める用意のため明石港へ出張した。その滞在中は一日に米五合、漕ぎ手として乗船した時やその他の勤めをした時は一日に米一升、また移動距離が十里以上になった場合は米三升が支給された。(江井島村)
・旧藩主は正月四日(陰暦)の初漁の時に、祝酒として漁家毎戸に清酒を与えていたが、明治4年(1871)頃なくなった。
・旧藩主は漁業祈祷料手当金、伊勢出雲各神社への参詣費、その他浦方世話料を支給していた。
・飯章魚は幕府への献上品であるため、献上が終わるまでは漁業・売買は禁止されていた。