献上された魚

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 江戸時代には、全国の大名から幕府に多くの品物が献上されていた。(献上された品は年中行事や儀式などに際して、大名・幕臣などに下賜された)その品物は時献上として地域の名産物などが季節により定められていて、明石松平家は海沿いの藩のため、2月飯蛸粕漬、3月塩引鰡、4月鯛粕漬、暑中鮮鯛、7月干蛸、9月懸塩鯛などの海産物が主体であった。明石の名産といえば現在でも「鯛」・「蛸」だが、馴染みのない「鰡」も含まれている。全国の大名の状況を『大名武鑑』などにより調べると、時献上を差上げる大名は全国で約230家あり、そのうち鯛・蛸・鰡を献上している大名家の数は次のようになる。
 享保15年(1730)頃文化元年(1804)文政12年(1829)
60122119
蛸2 飯蛸2蛸2 飯蛸2蛸2 飯蛸2
1199

 鯛はほとんどが干鯛であるが希に生鯛もある。献上する大名家は約2倍に増えていて、祝い魚の代表格としての地位を確立したことがわかる。需要が多いためか、海の無い信濃国上田の松平家でも正月に干鯛を献上することになっている。
 蛸は変化が無く固定していて、明石松平家から7月に干蛸、金沢前田家から9月に麹漬蛸、さらに2月には明石松平家と岸和田岡部家から飯蛸の粕漬が届けられている。蛸といえば、やはり明石が名産であったといえる。
 鰡は成長するにつれて名前が変わる出世魚(オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド、“行きつくところ”という意味の“とどのつまり”の語源)で、目出度い魚とされている。宝暦4年(1754)6月23日に執り行われた、第9代将軍徳川家重の子家治(のちの第10代将軍)と閑院宮倫子との結納の儀では、御肴10種として塩雉子・塩鷹・塩鰡・塩鱈・塩鱸・生鯉・海老・塩鯛・昆布・鯣(スルメ)が並べられた。献上品の鰡は全て塩引で、明石(播磨)・桑名(伊勢)・中津(豊前)・田中(駿河)・鳥取(因幡・伯耆)・徳島(阿波・淡路)・刈谷(三河)・岸和田(和泉)・鳥羽(志摩)の大名家からであり、東海地方から瀬戸内海沿岸に広がっている。時期は正月から3月・4月で、いわゆる寒鰡であるが、日本海側の鳥取だけは9月である。
 献上魚の漁については、鰡漁の網は藩内での網数を制限して乱獲を防ぎ、鯛漁の網は藩主だけが持っていた。また、献上が終わるまではその魚の捕獲・売買は禁止されていた。しかし、漁期には葵紋付幟を建てて優先的に漁をし、捕れた献上品以外の魚は漁民が分配したと思われ、漁に携わった漁民は一時的ではあるが恵まれたようである。

『大名武鑑』〔文化5年(1808)〕

 明石松平家から献上された魚のうち鰡は現在では馴染みがないが、昭和40年(1965)頃までは沢山捕れ、非常に美味であったようで、刺身で食べてハマチやマグロよりも旨かったという漁師の話もある。(『播磨の漁業・今昔』1977)
 近年でも寒い時期、明石川河口などに群れをなして現れることがあるが、捕る人も、魚屋の店頭に並ぶことも無い。また、塩引鰡として祝いの膳や日常の食卓からも姿を消した。その原因は環境問題であった。鰡は水底の藻などを砂や泥などと一緒に食べる習性があり、瀬戸内海の環境汚染が進んだ頃から“身が臭い”といわれ始め、昭和48年(1973)に大問題となったPCB(ポリ塩化ビフェニル)による汚染が致命的となり、市場に出回ることは無くなった。
 しかし、現在では海の環境は大きく改善されているので、江戸時代には幕府へ献上される魚であった明石の鰡を美味しく食べることができる日も近いであろう。

鰡の群泳(明石港 平成28年3月)