5.戦国時代

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 鹿ノ瀬については古くから淡路島の沿岸漁師も林浦・林村の漁場と、認めていたようである。高山右近が船上の城主の頃、姫路藩・加古郡の漁師が鹿ノ瀬の入会権を求めて訴訟を起こしたが、鹿ノ瀬は古くから林村の漁場という主張が大坂の三つの奉行所によって認められた。林村ではこの時の訴訟の莫大な費用を捻出するため、鹿ノ瀬を担保にして大坂の商人・塩屋弥左衛門から銭50貫文を借り入れた。
 その利息としてではないかと思うが、林村から永代、塩屋へ魚を送ることを約束し、太郎らが署名して証文を交わした。天正14年(1586)8月21日のことである。この証文が後の訴訟に威力を発揮することになる。この加古郡の漁師の中に二見(当時は加古郡)の漁師が入っていたかどうかは分かっていない。
 この争いの時に、林村に摂津の東駒ケ林(長田区駒ケ林町)から安否を尋ねて来た。林村では駒ケ林の漁民の厚意に対して、林付近で漁をする事を許したといわれていて、そのためにか毎年正月に駒ケ林から林へ挨拶に来ていたそうである。
 一説には、駒ケ林は元々、小林といい林村からの出村・枝村だったといわれている。
 垂水の海神社(元々は明石郡で播磨)の秋祭りの舟渡御では、神輿をのせた御座船の漁船は東は駒ケ林の沖合に行って引き返し、西は西舞子と朝霧の境で引き返す。漁師の漁場の境界を示しているようで、それを越えて駒ケ林の漁師が林村近辺で漁ができたというのは、先の話の様な何か特別の意味合いがあったのかもしれない。