6.江戸時代 林村と東二見村の争い

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 寛政18年(1641)、東二見村の舟が新しい網を作り鹿ノ瀬で漁を始めたので、林村が漁場の侵犯であると京の奉行所へ訴えた。争いとなったのは、鹿ノ瀬から小豆島近辺にかけての“イカナゴ網代”という瀬だった。この訴訟の時、大坂の商人・塩屋弥左衛門の子孫・五郎兵衛が、天正の証文を証拠書類として提出したために、林村が勝訴した。そして、寛永19年(1642)、奉行から「以降、鹿ノ瀬では、東二見の網は停止」となり、当然、他の地域(同じ明石藩内)も鹿ノ瀬での漁を無断ではできない、という裁決が出された。これに対して林村では塩屋五郎兵衛の尽力に感謝して、毎月、いわし網漁、イカナゴ漁から最初に取れた魚を贈ることを決めた。
 その後、宝暦11年(1761)東二見村が鹿ノ瀬でタコ壺漁を始めたので、林村の漁師がタコ壺漁の縄を切ったことから、東二見村が明石藩の郡代所へ訴えたが、取り上げて貰えず、林村を大坂奉行所へ訴え、双方がいい分を展開した。結果、大坂奉行所は、宝暦12年(1763)争いの漁場11カ所全て林村の漁場と認めて、今後、明石藩領内への立ち入りも禁止し双方ともこの裁決を守ると届け出た。林村の完勝である。この訴訟には西二見も加わっていて、相当な訴訟費用となった。なお、この時、大坂の塩屋は裁判に立ち会おうとしなかったといわれ、林村が借金の利息の支払いを怠ったのではといわれている。なぜか、今回の判決の後に、林村は八年分の利息、銀一貫十六匁を前納している。
 その後も東二見は先の裁判の決め手となった海の図面に方角に間違いありと訴え、奉行所は調査をしたが、方角の間違いの誤差はわずかで判決に影響はないと、訴えを却下した。その後も何度も訴えたが、取りあって貰えなかった。
 このため、東二見村の庄屋・孫左衛門の弟、弥惣兵衛、総代として市郎右衛門、伊左衛門の三人組が安永2年(1773)正月12日に東二見を出発して、翌2月13日に江戸の勘定奉行に願い出た。そして、数回の取り調べの後、7月12日「この件は、大坂奉行所で13年前に決着済みで、江戸では取り扱えない」と却下された。3人は再度、提出しようと知り合いに相談したが、無理だろうといわれ、手持ちの金銭も底をつき始めた。そこで、三人は老中・松平将監が登城中の駕籠に嘆願書を差し出して直訴する“駕籠訴”(禁止されていた)を断行する事に決め、安永2年(1773)の11月17日、“駕籠訴”を実行した。松平将監は書状を読み、3人を自宅に連れ帰り、先に判断した奉行と別の勘定奉行を紹介し、3人は川合越前守に訴えた。「この件は、勘定所内部でも話題となっている」と好意的な言葉を貰って、その後、再吟味の末、大坂奉行所での差し戻し再審となった。しかし、翌年の大坂奉行所の判決も、やはり却下された。
 東二見村は訴訟費用や漁場の減少で、困窮極まりない事態に陥った。しかし、各地で入会漁業の争いが相次いだ事から、安永7年(1778)になって、大坂奉行所は東二見の主張をほぼ認める判決を出した。村の人は三人の功績を讃え、“安政の三義人”と呼び、漁港近くの瑞応寺に“西向き地蔵”を建てて、遺徳を偲んだ。今でも地区の人たちは盆の施餓鬼には、この3人の供養から始めている。
 林村の明石藩は徳川家の譜代・親藩が続いて、その力も強かったのであるが、それに対して、東二見村は江戸時代の265年間に、姫路藩⇒明石藩⇒天領⇒大坂城代領⇒大坂城代・京都所司代領⇒天領⇒大坂城代領⇒最後は武蔵国忍藩(埼玉県)飛び地領と八回も領主が変わるという苦労をした。明治になり最初の県名は忍県であった。
 藩というのは、何十万石でも何万石でも城下町を中心とした小国家で、生産・消費が帰結する独立した経済圏で、藩札などと紙幣を発行したりもできたのである。藩が違うというのは国が違う、他国との争いで、藩内の裁決では済まず、裁判地は大坂・京・江戸となる。

鹿ノ瀬論争絵図 *白線内(2図)はP28に拡大図あり

鹿ノ瀬論争絵図(部分)
鹿ノ瀬論争絵図(部分)
漁場呼び名の違い
同じ場所で呼び名が違うため、
両村での呼び名を併記している。
上:東二見村「かいをじろ」
下:林村「上のひちや網代」

鹿ノ瀬論争絵図(淡路部分)
鹿ノ瀬論争絵図(淡路部分)
育波から江崎の間に漁場名を記した付箋が2ヵ所貼られている。
左:東二見村「とうぐひ」 右:東二見村「まつの出し」