「鹿ノ瀬の争論年表」

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○(1581年)播磨を平定した秀吉が年末に信長に明石の蛸と干鯛などを贈る。
○(1586年)大坂の奉行所が鹿ノ瀬に林村(林崎)の漁師の漁業権を認める。
○(1639年)高砂の漁師が鹿ノ瀬に網を入れたが、高砂方が謝罪して決着。
○(1641年)鹿ノ瀬をめぐり、東二見村と林村で訴訟。東二見村は敗訴。
○(1690年)淡路・斗の浦と明石浦両浜(前浜・新浜)の漁師間で条件協議。
○(1761年)東二見 鹿ノ瀬タコ壺漁で幕府に林浦を訴える。
○(1763年)東二見のタコ壺漁訴訟判決は林村に厳重注意のみ、林村の全面勝訴。
○(1768年)明石郡代所、明石浦両浜の漁師に林浦でのタコ漁は禁止と通達。
○(1770年頃から)高砂の工楽松右衛門が和船の帆を二見などで製造を始める。
○(1773年)東二見の三義人、江戸の勘定奉行へ出願哀訴。結審済みと却下。
○(1774年)「二見三義人」老中に駕籠訴、大坂奉行へ差し戻し。しかし、却下。
○(1778年)「二見三義人」駕籠訴が功を奏し、東二見が鹿ノ瀬入会権を獲得。
○(1795年)津名郡机浦と明石浦両浜の漁師間争いに、大坂奉行所、漁境界設定。
○(1814年)須磨の漁師2人が林浦の漁場で魚を獲り悶着。商人が仲立ちし内済に。
○(1837年)紀州加田(加太)漁師、2年連続で林の漁場で操業。詫証文を入れる。
○(1875年)播磨と淡路の漁師が衝突して大乱闘になり、県が調整するが難航。
○(1878年)県当局の3年間の説得が実を結び、明石・淡路の6浦漁民が手打ちの講和会議を明石で行い「鹿ノ瀬条約」調印。林浦専用に終止符。
○(1900年)3年前から四国の漁師が新漁法の網で鹿ノ瀬を荒したため、明石・淡路の漁師の200隻の船団と四国の漁師の衝突寸前に、県、警察が海上出動して、中に入り、四国の漁師を帰らせ、停戦に持ち込む。
○(1903年)旧漁業法の施工と同時に明石・淡路の6浦による「鹿ノ瀬条漁業組合連合会」を発足させ、「鹿ノ瀬規約」を結んだ。
○(1910年)鹿ノ瀬漁場に法律に基づき、専用漁業権が免許され、今の基礎となる。
○(1949年)旧慣行を排除して新漁業法が公布。
○(1951年)新漁業法に基づき、鹿の瀬組合を解散し、東二見・西二見が加わった。
 「鹿ノ瀬会」が誕生した。水産協同組合法が施行され、鹿ノ瀬を播淡8漁協が共同で漁業権を所有する漁場としてスタートした。
 
注)『播州東二見浦漁業の歴史』(黒田義隆、大西昌一著、1978年)、『ふるさと二見の歴史』(大西昌一著、2005年)の2冊を主な参考資料としてまとめた。