船上城跡は海岸から北方500mの湿地に位置し、高山右近が天正13年(1585)に羽柴秀吉の命によって築いた平城であった。初代明石藩主の小笠原忠政が新たに船上城に入城し、その後、明石城が元和5年(1619)に完成した時に廃城とされた。現在では本丸跡と伝えられる高台だけが残り、城下町などは後世の開墾で田畑となり、船上城の姿は今はみられない。
昭和56年(1981)になって、明石警察新庁舎の車庫と道場棟の建設予定があり、兵庫県教育委員会が事前の発掘調査を実施した。その結果、18世紀後半にあたる井戸跡が検出された。さらに、明石警察庁舎建設についても発掘調査を実施した結果、大溝状の遺構と暗渠群が検出された。その大溝は南北に走り、幅9.5m、長さ40m、溝の底部には黒灰色粘土の堆積が確認された。この大溝の検出状況を検討した結果、船上城跡の堀跡に相当すると推定され、さらに暗渠は大溝の西側で検出され、幅40cm、深さ40~50cmであった。この暗渠は東西に3列と南北に3列が確認された。
なお、当発掘で出土した遺物には17世紀初頭にあたる唐津焼皿、志野焼皿などがある。