(3)林崎村の沿革

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1)明石郡林崎庄については、観応2年(1351)の大徳寺末寺の妙覚寺の寄進文書に林村・高濱・東松江・西松江・藤江村・和坂・鳥羽の7村の記載名がある。
2)慶長16年(1611)頃に描かれた最古の絵図「慶長播磨国絵図」に「林村」と「高濱」の記載がある。
3)寛永17年(1640)に林崎庄の村は、林村・高濱村・東松江村・西松江村・藤江村・和坂村・鳥羽村・鳥羽新田村・松陰新田村の9村となる。
4)林崎掘割の設置「万治元年(1658)4月」
 林崎地方は、いなみの台地の東端にあたり、降水雨量が乏しく野々池の水不足に苦しみ、僅かな日照りで稲が実らず、林村・和坂村・鳥羽村・東松江村・西松江村・藤江村の農家が大変苦しんでいた。この苦労を少しでも解消するため、明石川から野々池への灌漑用水路の工事を代官の伊藤次郎左衛門と6村の庄屋たちが明石藩主の松平忠国に願い出て、明暦3年(1657)10月に許可を得た。そこで和坂の工師山崎宗左衛門に測量と工事指導を受けて、翌年の万治元年(1658)4月の田植え前に完成した(経路は西戸田~印路~中村を得て延長5374m、幅1.5m)この水路によって大豊作となった。なお、この工事を讃えて元文4年(1739)、和坂の庄屋伊藤治兵衛らによって、当工事を後世に伝えるとともに水争いが起きないように、明石藩の儒学者・梁田蛻巌が撰文した記念碑が建立された。この記念碑は昭和49年に市文化財に指定された。そして、毎年の4月18日は掘割祭が行われ、掘割土地改良区の関係者と鳥羽・林・藤江・沢池・和坂の小学校の児童が毎年、順番に参加している。

林崎掘割渠記碑(明南町)


林村の農水路(大正12年測図)

5)明治22年(1889)4月、船上村・林村・東松江村・西松江村・藤江村・和坂村・小久保村・鳥羽村・鳥羽新田村の9村が合併して林崎村となる。
6)林崎村に明治40年12月15日、林崎村役場(現在の林コミュニティ・センター)が設置された。