好漁場に恵まれ漁獲を誇る林村であったが、不漁の続く年もあり、また海の荒れる冬場の水揚げは極端に少なく、漁師は土木作業や大阪の蒲鉾工場、山陰の漁場などへ出稼ぎに出なければならなかった。捕鯨船に乗り組む者もいた。明石の漁村では、そういう不安定な暮らしから脱するため、1950年代半ばよりノリ養殖業が試みられ、強い西風、激しい潮流のなか試行錯誤が繰り返されてきた。
そこへ、昭和38年(1963)「三八(さんぱち)冷害」と語り継がれる大寒波が襲来し、明石のタコは絶滅の危機に陥った。当時全漁獲高の八割をタコに頼っていた林村は大打撃を受け、漁協組合員の半数近くがこの時漁師を止めたという。県や明石、淡路の漁業組合が、九州、天草産の抱卵ダコや稚ダコを放流して、タコの保護に努めたが、漁獲高が回復するまでに20年ほどを要した。
一方、ノリ養殖業は1960年代に入り、技術の飛躍的な進歩によって軌道に乗ってきた。タコの不振により、ノリ養殖への転換が一気に進んだ林村では、70年代になると、その成功により次々に家が新築され「ノリ御殿」と呼ばれたほどである。大規模な設備を要するノリ養殖は、明石市では協業体により運営されている。2015年現在、林崎漁業協同組合の組合員257人のうち181人が、34のノリ養殖経営体に従事しており、全漁獲高の7割をノリ養殖が占め、単独漁協では全国1位の生産高を上げている。
漁業者の生活安定に、大きく貢献したノリ養殖であったが、近年、天候に左右されるノリの品質の問題、莫大な設備費、安価な外国産ノリの輸入による価格の下落等のため、明石市内の漁協ではノリ養殖から撤退する者もあり、協業体は減少傾向にある。市の統計によると、1988年から2008年までの20年間の漁協別漁業経営体数の減少率は、明石浦23.5%、林崎14.3%、江井ヶ島26.9%、東二見34.9%、西二見31.8%であり、林崎漁協の減少率の少なさは際立っている。