『林崎漁業組合五十年の回顧』に「明治15年(1882)、二十三艘組が創設され、壺引き漁業の重鎮となった。(中略)明治初年以来、最も栄えた頃で漁船50艘を数えたが、現在は34艘である」と述べられている。
林村では、昔からタコ壺漁を「ツボヒキ」という。この記述にある「二十三艘組」のことを「二十三バイ組」(船を1パイ、2ハイと数えるため)と呼び「ツボヒキの主だった者たちの仲間」であり、林1丁目の大東町・大丁・獅子投町の家々に限られていた。「ハタケ」は、それぞれ家によって昔から決まっていた。二十三バイ組は、鹿ノ瀬のオキラ(淡路側)と淡路(富島~岩屋)を漁場とするグループと、鹿ノ瀬のナダ(林側)と明石川~垂水を漁場とするグループであった。二十三バイ組以外のツボヒキの漁場は、中之町の者は「カンタマ」の先の「ウチガワラ」、西之町の者は「カバチ筋」、高浜の者は「瀬ノ上」であった。この漁場区分は、明治以来(おそらく、それ以前から)変わっていない。
二十三バイ組は講を組織して、新造船の費用を出し合い、年に何回か集まって飲食をし、金毘羅参りや淡路の千光寺参りなども一緒に行っていた。ハタケの権利を持つことは社会生活にも反映し、秋祭りに若宮神社の宮入りの先陣を切る「お先太鼓」は、毎年二十三バイ組の属する町の太鼓と決まっていた。後述する町内の祠「エベッサン」も、大丁にある戎神社は、今も二十三バイ組であった漁師が中心になって祀っており、ツボヒキ集団の名残が見られる。
若宮神社の玉垣
タコ壺漁は水揚げが多く、イカナゴの時期にも込ませ網に加わらず、1年中ツボヒキをしていた。それに対し、網漁や釣り漁の者は「小漁(こりょう)」といわれていた。
林村のタコ壺漁の具体的な方法については、井上嘉平治著『蛸の国』等の詳細な研究がある。タコ壺は、現在はプラスチック製であるが、30年ほど前までは、地元の中八木や江井島で作られた素焼きの壺を使っていた。壺のくくり方は、林村では、壺の底を十文字にくくるソコグクリが主流であった。潮の流れが速く、海底は礫や岩のため、壺が破損しやすいので、縄で壺を保護するのである。しかし、潮の流れが比較的穏やかで、海底が砂や泥の高浜の漁場では、壺の口のところだけをくくるクチグクリにしていた。二十三バイ組で、ツボヒキをしていた漁師が「二十三バイ組の方は、深いし潮もきついから壺を上げるのがえらかった。高浜の方は浅くて、潮もゆるいからしよい(し易い)。高浜の方が先にツボヒキをしていたと思う」と語っていたのは、村の起こりを考える上できわめて興味深い。
現在の林崎漁協のタコ漁は底曳網漁が主で、タコ壺漁は専業7人、ノリ養殖との兼業8人のみで、漁場は瀬ノ上、ノリ養殖漁場の狭間である。タコ釣りは、6月末~9月末頃に年配の漁師数人が行なっているだけである。
タコ壺漁 林崎漁港(昭和39年)
『ふるさと明石・写真帳』より