―巾着網の漁撈集団―

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 林村では、ノリ養殖が始まるまでは、地区により漁法に特徴があった。「東(林1丁目)はツボヒキ、真ん中(林2丁目)は釣り、西の高浜(林3丁目)は網も釣りもツボヒキも」であった。ところが、秋のイワシの時期になると、全員普段の漁具を置いて、一斉に巾着網漁に取り組んだ。イワシの漁獲高は飛躍的に増え、多数の網が出漁したが、漁場海面の狭いことから争いが絶えず、また乱獲防止のため協定によって網数を制限した。町内ごとに、あるいは近くの町内合同で、一統の巾着網の株を持ち協同で操業しており、大正2年(1913)には八統の網があった。林崎漁港の西端に立ち並ぶ「魚介類供養塔」石碑群の中に、「発起人碑・巾着網八統代表者(大正二年一月)」の刻銘碑がある。八統は、東から、
①東之丁巾着網 ②中之丁巾着網 ③西之丁巾着網 ④元網 ⑤丸三巾着網 ⑥戎巾着網 ⑦八九(のち八黒)巾着網 ⑧高西巾着網/(表8)
である。若宮神社の鳥居の内側に立つ明治40年(1907)建立(平成8年1996再建)の幟立てに「寄附者 林東之丁巾着網 林西之丁巾着網 林川端元網林中之丁巾着網」と、「林」地区の四統の刻銘が見られる。④元網は、巾着網の考案者の一人、藤原繁蔵所有の網であり、川端丁や宮之丁ほか様々な丁の者が乗り子となっていた。また、イワシの時期には、香川県や徳島県から乗り子が来て、元網倉庫の二階に住み込んでいた。

発起人碑


若宮神社の幟立て

 「林崎漁業協同組合五十年の回顧」によると、昭和3年(1928)から戦災を受けるまで、六統①②③④⑥⑦が操業していた。網は、木綿の反物を買い、網仲間みんなで仕立てた。網の倉庫のところには、「カシあげ」用の大きな釜が据えてあった。カシあげとは、樫の木の皮を炊いて、その液に網を浸けて腐りにくくすることで、大きな巾着網のカシあげ炊きには、半月ぐらいかかったという。
 林村では、巾着網の株を持つことが一人前の漁家の条件であり、「株を持ってない者に、娘はやれん」といわれていた。イワシの大漁に沸いた林村であったが、1945年の空襲により巾着網は半焼けの一統を残してことごとく焼失し、漁師のほとんどすべてが住む家も漁具も失うという悲惨な事態に陥った。戦後は、漁業組合の会長以下役員一同が、わが家の再建も忘れ、巾着網の再建に着手した。1947年から49年までに年に一統ずつ新造し、組合直営の網三統となり、各町交替で出漁していた。やがて、漁獲高の減少、労力不足などから1960年代初めには林村の巾着網は姿を消すこととなった。