①東之丁巾着網 ②中之丁巾着網 ③西之丁巾着網 ④元網 ⑤丸三巾着網 ⑥戎巾着網 ⑦八九(のち八黒)巾着網 ⑧高西巾着網/(表8)
である。若宮神社の鳥居の内側に立つ明治40年(1907)建立(平成8年1996再建)の幟立てに「寄附者 林東之丁巾着網 林西之丁巾着網 林川端元網林中之丁巾着網」と、「林」地区の四統の刻銘が見られる。④元網は、巾着網の考案者の一人、藤原繁蔵所有の網であり、川端丁や宮之丁ほか様々な丁の者が乗り子となっていた。また、イワシの時期には、香川県や徳島県から乗り子が来て、元網倉庫の二階に住み込んでいた。
発起人碑
若宮神社の幟立て
「林崎漁業協同組合五十年の回顧」によると、昭和3年(1928)から戦災を受けるまで、六統①②③④⑥⑦が操業していた。網は、木綿の反物を買い、網仲間みんなで仕立てた。網の倉庫のところには、「カシあげ」用の大きな釜が据えてあった。カシあげとは、樫の木の皮を炊いて、その液に網を浸けて腐りにくくすることで、大きな巾着網のカシあげ炊きには、半月ぐらいかかったという。
林村では、巾着網の株を持つことが一人前の漁家の条件であり、「株を持ってない者に、娘はやれん」といわれていた。イワシの大漁に沸いた林村であったが、1945年の空襲により巾着網は半焼けの一統を残してことごとく焼失し、漁師のほとんどすべてが住む家も漁具も失うという悲惨な事態に陥った。戦後は、漁業組合の会長以下役員一同が、わが家の再建も忘れ、巾着網の再建に着手した。1947年から49年までに年に一統ずつ新造し、組合直営の網三統となり、各町交替で出漁していた。やがて、漁獲高の減少、労力不足などから1960年代初めには林村の巾着網は姿を消すこととなった。