(5)まとめ

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 林村では、「網元」という言葉を耳にしない。昔から、路地を挟んで毎日顔を合わせる者同士、チョウ(丁、町)ごとに協力し合って日々の生活を営み、漁場割りや水揚げの分配の公平性に配慮しながら漁業を行なってきた。
 林村の漁師は、地先の海を「エノマエ(家の前)」と言い、沖を「オキ」や「オキラ」と言う。「高浜」地区は、もとは半農半漁で農作業の傍ら、「エノマエ」で小規模な地曳網漁、手繰網漁、釣り漁、壺漁などさまざまな漁法により自家消費の魚を獲り、自立したムラであったと考えられる。
 「林」地区は、ほとんどが漁業専業者で、農地を所有するものは漁業を行なっていなかった。商品経済の発達とともに、漁船漁業が盛んになり、「オキラ」で活発に網漁やタコ壺漁を行うようになったのであろう。オキラは好漁場である反面、明石海峡による複雑な潮の動きで、航行の難所でもあった。危険な海上での作業、漁場争いや販路の拡大、経費の増大に対応するため、漁撈集団も大きくならざるをえない。そのため、タコ壺漁師の多かった林1丁目の「町」の区割りはもともと大きく、さらに大東町・大丁・獅子投町の三町にまたがる二十三艘組という集団を組織した。そして、巾着網のような大規模な網漁では、三町合同の「東之丁」という組織となった。一方、釣り漁師の多い林2丁目は、小型の船で出漁できるため、普段は五蔵町、地蔵町、戎井町、戎之町それぞれに、「筋(すじ)」ともいう小さい区割り内の協力で足り、大規模な網漁や祭りの場合には、四町合同の「西之町」として行動した。
 このように、巾着網の漁撈集団は、労働力確保や暮らしの協同性を満たし、祭り太鼓を所有し運営するのにちょうどよい、ムラを小型化したような組織であった。海と集落との境界に、エベッサンやオイナリサンを祀り、そこに網の倉庫を築き、カシあげ用の釜を置いて、共に作業をしてきた。その先に広がる浜は、トンドや盆踊りなど人々の集う広場でもあった。
 林村は、地縁による漁撈集団の強い結びつきを軸に、経済面、社会面、また信仰面において、緊密な付き合い関係を作り上げてきたといえる。冒頭で述べた短冊形の地区割りは、イカナゴ、タコ、イワシなどのさまざまな漁法と、それをもとにした人々の暮らしとの相互作用により形成されたムラの姿であると考えられる。
 「わしらは、組んですることに慣れてるんや!」と言う林村の漁師の特性は、このようなムラを背景にしたもので、現在のノリ養殖の協業体にも引き継がれてきているのではないだろうか。