明石市東部の(旧)大蔵谷村では、今は漁業は行われていないが、昔は地曳網漁が盛んであった。現在の大蔵八幡町から大蔵本町にかけて、明治から昭和20年ごろまで六統の網元があり、東から卯月家・村上家・牧野家の三軒と、戎・清六・西網という共同所有の三統であった。
「イワシが浮いたー!」「アジが浮いたー!」という声で、近所の百姓や瓦工場、マッチ工場などの労働者や女、子どもまでが「曳子」として集まってきた。網元の母屋の土間や納屋の土間は通り抜けになっており、誰かれなくそこを走って浜へ出て網を曳いた。曳子は「卯月の網を曳く」とか「村上の網を曳く」というようにグループが決まっていた。
水揚げの分配は、油代などの経費を差し引いた残りを、網元が半分、曳子が半分と「分(ぶん)わけ」した。曳子の「分わけ」の詳細は、一人前が1升、櫓を漕ぐものは1升2合、漁師でない男は8合、15歳までの男は5合、女は4合と決まっていた。金銭で渡すようになっても、このようないい方であった。
大蔵八幡町の卯月家には、明石藩主がタイ網漁を見に来たとも伝えられており、昭和初期まで、浜の方の納屋に男衆が2、3人住み込み、漁業や農作業を手伝っていた。
右の図は、網元であった頃の卯月邸(明治5年1872竣工)の間取りである。
平成9年(1997)、明石市都市景観形成重要建築物に指定されている。