(1)雌鹿の松

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 宝蔵寺本堂の南にクロマツが植えられている。このマツは、前に立てられている説明板から「雌鹿の松」と呼ばれていることがわかる。
 松の横には、「明治辛丑年 雌鹿松 為田芳香書」と彫られた石碑と「雌鹿松 清香 しきかえる なみにとはばや はりまがた めじかの松の千世のむかしを 愛石筆」の歌碑が建てられている。二つの碑は、小豆島周辺に産する花崗岩ではなく、四国山地・紀伊山地に分布する緑泥片石が使われている。明治辛丑年は、明治34年(1901)で北清事変の最終議定書が調印された年である。歌碑の書は明治~大正期の書家・玉木愛石(たまきあいせき)によるが、詠み人の清香は林村の女流歌人であろうか、よくわからない。歌に詠まれた松は東隣の若宮神杜まで枝を伸ばすほど大きく、漁に出た船が海上で自分の位置を知る山立てに使われていたという。

雌鹿の松・宝蔵寺


「雌鹿の松」句碑

 「雌鹿の松」のいわれについては、説明板に —昔、林崎に“おささ”という雌鹿がいて、小豆島には雄鹿が住んでいた。二頭は仲むつまじい夫婦だった。潮が引くと、小豆島まで浮かび上がった浅瀬を利用して往復した。好漁場の鹿ノ瀬は、ここから名付けられた。ある嵐の日、“おささ”は漁師の起こした過ちで命を落とした。このためか、嵐が何日も続いた。怖くなった漁師が神仏にお祈りしたところ、赤石となった白鹿を弔うようにというお告げがあった。早速、宝蔵寺の境内に若松を植えて霊を慰めたところ嵐はぴたりと止んだ。この松は「雌鹿の松」と呼ばれ、空を隠すほど大きくなったが、昭和20年(1945)7月の空襲で本堂とともに焼失した。現在は昭和23年(1948)に植えられた二代目の松である。— と書かれている。
 『新明石の史跡』「宝蔵寺」には、 —昔、林崎に“おささ”という雌鹿、小豆島には雄鹿が住んでいた。二頭は浅瀬を渡って会っていた。ある日、雌鹿が帰ろうとすると暴風雨になった。鹿は美しい娘に化け漁船に乗せてもらったが、途中で正体がばれ、殺されたという。それ以来、浅瀬を鹿ノ瀬と呼び、鹿の血が赤石となった。村人は鹿を悲しみ、松を植えて「雌鹿の松」と呼ぶようになった。— とあり少し話の内容が異なるが、どちらも原典は『林崎村郷土誌』に所収されている「宝蔵寺記」になるのであろう。
 「宝蔵寺記」には、 —明石城から10町ほどのところに林村があり林崎村とも呼ばれる。林という地名の由来は、よく茂った林があったからであろう。この村に、応永年中(1394-1427)に開創した海門山宝蔵寺がある。本尊の多聞天王は鹿ノ瀬から引き揚げられた瑞像である。林村から小豆島まで海路で18里の間に、広さが50~60歩から500~600歩、深さが8〜9尺から5〜6丈の一筋の瀬があった。林村に住む雌鹿と小豆島に住む雄鹿は時々、この瀬を渡って会っていた。林村の漁師が親子で漁をしていたところ、俄かに暴風にみまわれた。急いで小豆島から帰ろうとした時、美しい婦人が「林村に住んでいるので乗せてほしい。」と言った。漁師は見知らぬ人であったが承諾した。舟に乗った女性が眠ると雌鹿になった。驚いた漁師の親子が、「この妖怪を殺してしまおう。」、「人に化けることのできる鹿は、よほどの霊力が宿っている。崇りがあるから殺さないほうがいい。」などと言い合っていると、驚いて目覚めた鹿は、「私に危害を加えると、貴方の家は7代にわたって厄難が起こるであろう。」といって海に飛び込んだ。鹿が泳いで小豆島にたどり着いて上がろうとすると、岸に一匹の猛犬がいた。鹿は犬がいるので陸にあがれず、犬は鹿を捕らえたいが海に入れず、鵜蛙(いつぼう)の争いのように睨み合った。そして、両者は立ったまま亡くなってしまった。
 鹿が通っていた瀬は、いつの間にか鹿ノ瀬と呼ばれるようになり、後に犬と鹿の睨みあう姿が石に刻まれ、その像は今もある。そして、あの漁師の家では7代にわたって自殺者が絶えなかったので、仏の教えによって鹿の煩悩を悟として霊を鎮めた。
 ある時、小豆島に一人の美女がいた。その艶しさは、国を傾けるほどであった。林村に一人の男がいた。男は女を一目みて忘れられず、白鹿に乗って瀬を渡っていった。小豆島に行き着こうとするとき、猟師が鹿を矢で射た。たちまち鹿は倒れ、男も溺れ死んだ。鹿は姿を変えて石になった。その石は海中に見ることができる。そこから明石と言われるようになった。また、鹿ノ瀬と呼ばれるようになった。この二つの説は、未だに成り立ちがよくわからない。あるいは、別の話であって筋道だけがよく似ているのであろうか、とにかく奥が深い。— と記されている。
 林村から小豆島へと続く瀬は、多数の魚が生息していて良く獲れることから、漁師の間ではこの広い海域を鹿ノ瀬とよんだ。この鹿ノ瀬の名は、鹿が瀬を行き来していたことに由来するといい、家島諸島に男鹿島(たんがじま)、本州側に妻鹿(めが)(姫路市飾磨区)の地名があることからも好漁場であったことがわかる。

男鹿島


妻鹿港

 林村では、村に住む雌鹿を主人公に鹿ノ瀬に纏わる地名説話がつくられ、そこから宝蔵寺境内の大きな松を「雌鹿の松」、鹿を“おささ”とよぶ話が派生したのであろう。『林崎村郷土誌』には「境内一老松あり雌鹿の松といふ老幹延々老龍の地上に蟠るに似たり」とあるが、元禄13年(1700)に記された「宝蔵寺記」にはこの松はみえない。また、江戸時代の地誌、『采邑私記』『播磨鑑』にも「雌鹿の松」の記述がないことから、江戸時代の中ごろは植えられていたとしてもまだ若木、その後に立派な松へと成長し「雌鹿の松」の話が生まれたと考えている。

最明寺

 さて、いま一つよく似た話が雌岡山(神戸市西区神出町)の麓、神出村にある最明寺で伝えられている。明石藩の地誌『明石記』に記録されている「雄岡山最明寺記」にみることができる。そこには、 —雄岡山あるいは雌岡山という山の名称は、昔、東の山に立派な男性が、西の山に上品でしとやかな女性が住んでいた。長年連れ添う仲の良い夫婦であった。南の青海原には、州があって渚といった。小豆島に一人の女性が住んでいた。雲のように軽やかな髪、きめ細やかな色白の肌、素晴らしい笑顔をそなえる絶世の美女であった。東山の男は一目みるなり、寝ても覚めても忘れられず、鹿に乗って海上を渡って行こうとした。西山の女は嫉妬して偽って、「昨夜の私の夢は大凶であった。貴方は小豆島に行ってはいけない。島に行くと貴方の身に災いが及ぶ。」と話した。男は思慕を断ち切ることができず島へと到った。鹿と海に浮かびながら中ほどまでやってきたとき、山上にいた狩人が鹿を捕らえようと矢を放った。鹿は立ったまま息絶えると、たちまち男も溺れ死んだ。鹿は石に姿をかえた。そこから、この場所の名を「明石」と言うようになった。今なお、男の通っていた航路でこの石を見ることができる。あるいは「鹿ノ瀬」と名付けられた。男は悪鬼と化し暴雨風をもたらす暴神(あらぶるかみ)となって航行する船を悩ませ、漁師は網を揚げることができずに流失させ生活が困窮した。そこで、上人は衆人を集めて、祭祀を執り行って男の悪霊が引き起こしている不慮の災難を取り払うことにした。村人はこぞって神事を執り行い、手厚く弔った。災害は、まもなく止んだ。今の林崎明神で災厄払いを行った。そこから、東山の神と林崎の神とが同一であることがわかる。そして、東山と西山の神は夫婦であり、このことから、山には雄と雌の名がつけられている。また、道をつくり仏閣を谷裾のなだらかなところに建てた。そこから、谷尾山号寺となった。東大寺・興福寺の各流派、天台・真言の二宗兼学である。薬師如来・日光月光・十二神将の霊像は、すべて法道仙人の作である。堂々五眼、高懸にして威を備える。穆々(ぼくぼく)(つつましく威儀のあるさま)万徳普及し、閾(けつ)(あやまち)は尽き、善は尽きらずや。— と記されている。「雄岡山最明寺記」にあるこの話は、雄岡山と雌岡山の地名説話であると言える。

雌岡山・雄岡山

 「宝蔵寺記」と「雄岡山最明寺記」を比較すると、主人公は鹿なのか、人なのか、夫婦での夢見についての会話はあるのか、脇役は漁師なのか猟師なのか、小豆島の美しい女性は登場するのかなど話の内容の違いが見えてくる。実はこれらの説話の原典が『釈日本紀』に「摂津国風土記逸文」として再録されている。さらに同様の説話が『日本書紀』仁徳記38年の条にもみえる。「摂津の国の風土記に曰く」で始まる『釈日本紀』には、 —雄伴(おとも)の郡(こおり)に夢野がある。老人によって語り継がれてきた。昔、刀我野(とがの)に牡鹿がいた。本妻の牝鹿もこの野に住んでいた。この牡鹿の側妻が、淡路島の野嶋にいた。牡鹿は、しばしば野嶋の牝鹿に会いに出かけていた。牡鹿が本妻の所で泊った朝、「昨夜の夢は、私の背中に雪が降ってきて積り、ススキが生えていた。この夢は、何の前ぶれであろうか。」と話した。牝鹿は夫がまた、側妻の所に行くのをよく思っていなかったので、いつわって悪く解釈して、「背の上に生えている草は矢で、背中を射られるというお告げである。また、雪が降るのは、塩を鹿肉にまぶすという例えである。貴方が淡路の野嶋に渡れば間違いなく漁師に遇って、海の真ん中で射殺されるであろう。決して行ってはいけない。」と言った。牡鹿は恋しい思いが断ち切れず野嶋に渡ったが、海の真ん中で漁船に出会って射殺された。そこから、この野原を夢野と呼ぶようになった。世間の諺で語られるのは、「刀我野に生活する牡鹿も、夢判断次第だ。」と言われている。— と記されている。『日本書紀』仁徳記の説話はずっと簡潔で、菟餓(とが)の野原を舞台に牝鹿と牡鹿の夢合わせについての会話に始まり、牝鹿の説得に従わずに出かけた牡鹿が狩人に射殺されて終わる。淡路・野嶋の牝鹿、漁師は登場しない。夢合わせの諺に終始している。
 「雌鹿の松」に関連する説話を時系列に並べると、『日本書紀』の成立が養老四年(720)、『摂津国風土記』の記事を引用する『釈日本紀』が鎌倉時代末期、「雄岡山最明寺記」は天文元年(1532)、そして「宝蔵寺記」は元禄十三年(1700)に記されたとなる。『摂津国風土記』の成立年代はわからないが、話の内容からは『日本書紀』の方が古いように思われる。まず、『日本書紀』“夢判断の諺”説話がつくられ、そこへ「摂津国風土記逸文」にあるように“夢野”の地名説話が付け加えられた。そして、「摂津国風土記逸文」の前半に語られている牝鹿と牡鹿の夢合わせを主題にして「雄岡山最明寺記」の“雄岡山・雌岡山”の由来がつくられ、後半の淡路島・野嶋へ渡る牡鹿の話を中心に「宝蔵寺記」の“鹿ノ瀬”の地名説話がつくられたとみる。「宝蔵寺記」と「雄岡山最明寺記」の前後関係を比較すると、前者が後者よりも説話が記されたのが200年近くも遅い。ただし、この年代というのは、あくまでもそれぞれの村で伝承されていた説話が書きとめられた時点であって、語り始められた時ではない。
 二つの説話のうち「雄岡山最明寺記」で気になるのは、原典の「摂津国風土記逸文」に基づいておれば、雄岡山の男性は淡路の女性に会いに行くはずであるが、実際には小豆島へと向かっている。“雄岡山・雌岡山”の地名由来を説明するには、南の明石海峡を隔てて見える淡路島でよく、何ら小豆島にこだわる必要はない。さらには、暴神となった男性の災厄払いを林崎明神で行っており、東山(雄岡山)の神と林崎の神とが同一であるとしている。一方の「宝蔵寺記」は、文末で「雄岡山最明寺記」にある小豆島に住む美女の話を簡単に取り上げ、このような説話もあると結んでいる。当然、「宝蔵寺記」が記述された時期には、「雄岡山最明寺記」は成立しており目にすることができる。
 林崎漁港で雄岡山・雌岡山、さらには神出村との関係をたずねた。「雄岡山と雌岡山は、海へ出て陸から遠くに離れるとこれらの山がよく見える。沖で操業しているとき“山立て”で使っている。東山・西山と呼んでいて、船の簡単な位置を知るには、いちいち計器を見るよりも早い。それから、漁師が四国の金毘羅さんや大阪の住吉さんのように雄岡山や雌岡山に行くことはない。神出村との結びつきといえば、神出村から林村へ嫁いできた人がいたように思う。」という答えが返ってきた。どうも、漁業従事者が雄岡山・雌岡山を信仰の対象として参拝する風習はないようである。興味をひくのは、農村から漁村へと嫁いできた話、神出村の家との姻戚関係である。東二見町でも同様に、加古郡稲美町から嫁いできた女性が多いという話を聞いた。ここから、魚介類の流通圏=通婚圏ということが推察でき、この流通システムによって、“鹿ノ瀬”の説話が海から山へと伝えられたのではと考える。あわせて、販売されていたのは鮮魚・乾物だけでなく、林村で大量に捕れるイカナゴ・イワシなどを乾燥させた肥料にも注目しておく必要があろう。干鰯(ほしか)は農業を兼業していた漁民が余った魚類、特に鰯を乾燥させ、肥料として農地に播いたのが始まりといわれている。17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、それに伴って農村での肥料の需要が高まり、農作物の成長に効果の高い干鰯が注目され、商品として生産・流通されるようになっている。この干鰯の出現時期については、一説には戦国時代にまで遡るといわれている。“雄岡山・雌岡山”の地名説話は、いつ生まれたのであろうか。
 「雌鹿の松」は、“鹿ノ瀬”の由来を語る説話である。林崎港を出た漁船は、明石海峡の満潮に乗って、春にはイカナゴ、秋にはイワシの大群を追って手繰り網漁をしながら鹿ノ瀬へと向かった。漁船に満載された魚は、家島諸島・小豆島の浜に陸揚げし天日に干された。家島諸島辺りに「明石」とよばれていた浜があればと思い尋ねてみたが、今のところわからない。そして、家島諸島・小豆島からは明石海峡の干潮にあわせて出港し、イカナゴ・イワシ漁をしつつ林崎港を目指した。枝振りの立派な「雌鹿の松」は、漁を終えた船が陸に近づいたとき、林崎港の位置を正確に知らせた。このような営みが古くから連綿と繰り返されてきたと憶断する。「雌鹿の松」の説話は、戦災で松が焼失するまで林村の漁師の間で語り継がれた。