(2)赤石

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 「宝蔵寺記」の“鹿ノ瀬”、「雄岡山最明寺記」の“雄岡山・雌岡山”の説話では、結末に共通して鹿が石となっている。『あかし昔ばなし』(神戸新聞明石総局・編)には、「宝蔵寺記」を題材にして「鹿の瀬」、「雄岡山最明寺記」を題材にして「赤石」の話が語られている。「赤石」では、 —雄岡山・雌岡山の狩人が、大鹿と一緒に青い海を泳いで林崎の沖合いまできたとき、丘の上にいた狩人が大鹿を見つけて、弓に矢をつがえて放った。空を切って飛んできた矢は大鹿に当たり、狩人も一緒に溺れ死んだ。この死んだ鹿の血が赤石となって、東松江と西松江の間、浜から15mほど沖の海中に沈み、ここから「アカシ」の地名が起こったと信じられている。— となっている。

「赤石」の碑(松江海岸)

 「宝蔵寺記」では、雌鹿は小豆島の海岸で犬と睨み合い、立ったまま亡くなり、後にその姿が石に刻まれている。鹿が死んだのは、小豆島ということになる。「雄岡山最明寺記」では、小豆島に向かった男と鹿は中流で山上にいた狩人の射た矢に鹿が当たって死んでいる。鹿は石に姿をかえ、そこからこの場所の名を「明石」と呼ぶようになった。鹿が亡くなったのは、中流とあるから明石から小豆島へ向かう途中、家島諸島辺りであれば山上に狩人がいてもおかしくはない。そして、この場所は何故か「明石」と名づけられている。
 享保年間(1716〜1736年)に編集された『明石記』には、雄岡山最明寺縁起として前段と後段を省略して鹿が石となった部分だけが取り上げられている。そして、そのあとに、「宝蔵寺縁起」には鹿の血が石となり、そこから、赤石と呼ばれるようになったという理由が示されていると記してある。しかし、「宝蔵寺縁起」には前にみたように、その様な記述はない。『明石記』は続けて、この石は西浦辺組東松江村と西松江村の境の浜辺から、8間程の沖にある。石の上面は一辺が4尺、他辺が5尺の大きさで、下辺は傘のように細くなっている。薄紫色をしていて普通は2尺ほど水中にあるが、毎年3月3日の潮には石の上部が海面から現れて見える。そして、注釈があって正保2年(1645)の御改絵図には、浜辺より3間ばかり沖にあると記されている。文化元年(1804)に刊行された『播州名所巡覧図絵』にも、赤石については、いくら大潮であっても石は水面から姿を見せないということ以外、ほぼ同じ内容が記されている。この赤石・赤い石から「アカシ」の地名が起こったのかについて考えてみたい。

松江海岸

 『風土記』『日本書記』など古代の文献では、「アカシ」という地名を赤石と記している。この記述が、赤石・赤い石から「アカシ」の地名がつけられたいわれる一因となっている。そこで、赤石と明石の漢字が文献ではどのように使われているのか、和銅6年(713)に出された史籍編纂の詔に応じて各国が作成し、後に『風土記』とよばれる官選の地誌からみていく。『風土記』のほとんどは散逸しているが、常陸(茨木県)、肥前(佐賀・長崎県)、出雲(島根県)、豊後(大分県)とともに『播磨国風土記』は、ほぼ完全な形で現在に伝えられている。しかも、中央から派遣された国司による編集が行われる前の形を残しているらしく、播磨国の古代史を今に伝える貴重な資料であるといわれている。715年前後に完成したと考えられているが、完成した年は確定できない。ただし、720年につくられた『日本書記』に先行するとみられている。
『播磨国風土記』
 賀古郡・遂到赤名(石)郡廝御井
    ・通山於赤石郡林潮
 託賀郡・昔明石郡大海里人
『釈日本紀』播磨風土記逸文・明石駅家駒手御井者
 『播磨国風土記』については、『釈日本紀』が鎌倉時代末期に記されているので配慮する必要はあるが、赤石と明石の両方の表記がみられる。
『日本書紀』
神功皇后・詣播磨興山陵於赤石
允恭天皇・赤石海底有真珠
清寧天皇・於赤石郡縮見屯倉
顕宗天皇・向播磨国赤石郡
仁賢天皇・将左右舎人至赤石奉迎
推古天皇・時従妻舎人姫王身薨於赤石
孝徳天皇・西自赤石櫛淵以来
『日本書紀』の記述は、全て赤石が使われている。
『続日本紀』
聖武天皇・明石賀古二郡百姓 高年七十已上
称徳天皇・播磨国明石郡人外従八位下海直溝長等
桓武天皇・播磨国明石郡大領外正八位上葛江我孫馬養
『続日本紀』は『日本書紀』に続く律令国家がつくった歴史書で、文武天皇 (697年)から桓武天皇(791年)までの歴史が書かれていて、菅野真道(すがののまみち)らが延暦16年(797)に完成した。『続日本紀』以降の「アカシ」の表記については、明石が使われている。さらに、『日本書紀』が成立した以降に記された『住吉大社神代記』天平3年(731)には「明石郡魚次浜一処」、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』天平19年(747)には「播磨国参処明石郡一処」、「平城宮跡出土木簡」天平19年(747)には「□□国明石郡藤江里」、『東大寺要録』天平20年(748)には「明石郡垂水郷塩山地三百六十町」とあるように、すべて明石となっている。
 以上のことから、赤石の表記は律令国家が編纂した『風土記』『日本書記』に限られており、広くは明石が使われている。和銅6年(713)に播磨国が地誌を編纂するにあたって、官命にある「畿内七道諸國郡郷名著好字」に基づいて「アカシ」に赤石という漢字をあてたといえる。従って、「アカシ」の地名の由来を赤い石に求めるのには、無理があるように思われる。
 昭和62年(1987)5月10日、岩屋神社が中心となって「赤石」の探索がおこなわれ、東松江川沖200m、水深5mの海底から、長さ1.8m・幅1.5m・厚さ0.7mの石が確認された。黒っぽい花簡岩で貝殻や紅藻が付いて赤黒くみえたという。形状からみて、『播州名所巡覧図絵』にある石に間違いない。大正12年(1923)の地図にも赤石は表記されている。『林神社社伝記』には、天正9年(1581)3月に羽柴秀吉が同神社に参拝し、船で赤石見物に出かけたとある。このころの秀吉の動きをみると、天正9年(1581)2月28日に中央をほぼ勢力下においた織田信長は壮大な馬揃えを帝の前で行っている。この時、集められた数百騎の中で一際注目されたのが千代の膀繰(へそく)りで購入した馬に跨った山内一豊だったと伝えられている。秀吉は3月5日に播磨国姫路城から長谷川秀一へ、「御馬揃」の「果多敷(おびただしき)」様を聞き知り参上できなかった「無念」を伝え、せめて参加者各自の「御仕立共(したてとも)」(井出達)を知りたい意向を伝え、播磨国姫路城の普請終了を報告している。その後、3月29日には松井友閑らと清水寺で猿楽をみている。秀吉が赤石を見物したかは定かでないが、近世を迎える頃に突如としてこの石は出現している。

大正十二年測図・大日本帝国陸地測量部


赤石 岩屋神社提供

 石材としての赤石をみると、松江海岸一帯は中位段丘が海までせまる海蝕崖(かいしょくがい)が連なっている。この崖の下部は、アケボノゾウ・シフゾウなど哺乳動物化石を産出する林崎・屏風ケ浦粘土層、上部はナウマンゾウなどを産出する西八木層からなっている。屏風ケ浦粘土層は200万年前後に湖に堆積した淡水成粘土層、西八木層は10万年前後に海に堆積した海成粘土層、ということは、これらの地層に大きな石があるとすれば、ゾウの頭骨か大腿骨の化石ぐらいで、ここまで大きさはなく方形でもない。最も、赤石は大きさが4〜5尺四方であり、一辺が1.2〜1.5m前後の方形をした石となり、驚くほどの大きさでもない。このような石、近くで入手できるのは岩盤が露頭している舞子墓園(神戸市垂水区舞子陵)である。太山寺の東を流れる伊川の川原にも大きな花崗岩はあるが、こちらは角がとれて丸い。赤石は岩盤から切り出された石であろう。
 明石市周辺での赤石に匹敵する大きさの石材の使用については、6世紀後半に盛行する古墳の横穴式石室の構築がまず思い浮かぶ。明石近辺の横穴式石室を持つ後期古墳は、直径24メートルの円墳で周壕を備える狐塚古墳、舞子墓園に100基を超える古墳があった舞子古墳群、雄岡山の東南山麓にある日吉谷群集墳(神戸市西区押部谷町)、銀象嵌の刀装具が出土した寺山古墳(明石市魚住町)などで、これらの古墳は石材の産出地の近くに位置している。

毘沙門塚(舞子古墳群)

 一方、吉田郷土館(神戸市西区枝吉4丁目)にある家形石棺の身(86×190×70cm)は、石の宝殿(高砂市)あたりで産する凝灰岩が使われている。

家形石棺(吉田郷土館)

 また、奈良時代に高家寺(明石市太寺2丁目)の境内に太寺廃寺が築かれ、花崗岩製の塔心礎(90×110×50㎝)が使われている。横穴式石室で使用されている石材を十分検討してはいないが、赤石に相当する大きさの石が使われているのであれば、近くの岩盤から切り出されたものと考える。四、五尺四方の石材の用途を考えたとき、横穴式石室の次に思い浮かぶのが明石城の石垣である。稲荷郭の石垣で1点、大きな石(130×100×?cm)を目にするが、ほとんどは一回りか二回りは小さい石ばかりである。その中で比較的大きな石といえば、石垣の角・算木積の部分で使われている石(80×130×70㎝、80×190×60㎝など)である。稜線が通るように見える二面が加工されている。そして、江戸時代の初めにつくられたという明石港の護岸に使われている石(75×190×70㎝)も、赤石の半分ぐらいの大きさである。

太寺廃寺塔心礎


明石港

 『林神社社伝記』にある羽柴秀吉の赤石見物から、石は姫路城へ運ばれる予定であったとも考えられるが、「秀吉築城時の石垣で使われた石材は、野面石(のづらいし)(自然石)で切り出されたものはなく、凝灰岩のほかチャートや流紋岩を使用し、要所に巨石を配する。「転用材」を多用し、算木積が未発達のため、隅角部稜線が不揃いである。」と『姫路城石垣の魅力』(姫路市立城郭研究室)では報告されている。矢穴を彫って割られた石が運ばれるのは秀吉の次の段階であることから、現存する赤石は近世初頭に城郭の石垣を築くために運ばれていた石が不幸にして沈んだものと考えている。大坂夏の陣のあと、大坂城修理にあたり、姫路城主池田輝政に仕える船大将で二見村にいた横河重陳が大坂へ石垣用の石を小豆島・家島諸島から運んだという。城の石垣に使うために運搬されていた石が途中で海底に落ちた場合、落城に通じるから放置するという。淀川などの河川改修工事で川底から、刻印・矢穴が残る石垣に使う予定であった石が引き揚げられている。

坤櫓・石垣

 古代において、「アカシ」を「赤石」と表記するのは、『風土記』編纂の官命による、「畿内、七道の諸国は、郡、郷の名には好字(漢字二字の嘉き字)を著けよ。」に従ったと考える。松江沖に現存する赤石について、「宝蔵寺記」「雄岡山最明寺記」では、この石に関してまったく触れてはいない。古代において存在したとは考えられない赤石に、明石の地名由来を求めることはできない。
 明石の地名由来については、この赤石のほかに、海岸が赤い(赤磯)などもあるが、古代の明石は畿内と畿外の境界の地、畿内から畿外に入って最初の明るい土地、万葉歌人がうたうように眺望が開けた明るい国であったことによるという説が妥当ではないだろうか。